第二話
横浜駅から向かった先は、関内からは離れ、民家もまばらな静かな場所だった。
目指す屋敷は小高い土地にあり、向かう道すがら、その高台からは遠くに港が見渡せた。
今まさに出港しようという汽船の、ぽぉーっという汽笛の音が聞こえてきて、ふっと気がゆるんだ。
聞いてきた住所を頼りに、通りがかった人に道を尋ねながら歩いて、私はようやくその屋敷にたどり着いた。
門前に立って、ゆるんでいた気持ちが再び冷たく引きしまるのを感じた。
屋敷は、外国の建物に明るくない日本の大工が、精一杯西洋風に造った、といった様子だった。
広く取られた前庭に薔薇が植えられてポーチを彩っているが、見上げてみると屋根はいかつい瓦だ。
国が定めた外国人留居地から外れた場所、日本家屋の並んだ中にこんな屋敷が建っていると嫌でも目立つ。
もうずっと、この屋敷に住むべき人間は長く留守にしていたはずだったけれど、庭も建物もきちんと手入れが行き届いていた。
前庭に面した窓は大きいが、カーテンが閉まっていて屋敷の中は見えない。
「ここが」
思わずつぶやいていた。
それが緊張をごまかす無意識だったことに、こわばった自分の声で気づいた。
街中で外国人とすれ違ったときのように身がすくむ。
私は体を縛りつけようとする緊張を振り払って、大股に屋敷の前庭へと踏み込んだ。
ほとんど駆け込む勢いでポーチの階段を上り、前に立った玄関の扉はやはり大きく見えた。
ひとつ息を吸い、大きく吐いて、私は扉のノッカーに手を伸ばす。
そして、その金属の冷たさを確かめるより早く思いっきり握ったノッカーを打ちつけた。
鈍く響いたノックの音に、しかし中からの応えはない。
屋敷に人がいることは知っていた。
私はもう一度、強く扉をノックする。
息をつめて待ち、やはり返事がないので、いらだちをこめて三度目のノックをしようとしたとき、屋敷の奥から足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
足音が扉の向こうで止まる。
がちゃり、と重々しい音を立てて取っ手が回り、扉が開く様子を、私はほとんど呼吸を止めて見据えていた。
開け放たれた扉、私が目を見開いて凝視する先に、その男は現れた。
金色の髪、白い肌をした外国人。
見上げるほどの長身に黒い洋服をきっちりと着て、その男は私の目の前に立っていた。
ようやく、だろうか。
ついに、だろうか。
覚悟を決めて、決意をしてここまでやって来たはずだったのに、いざその男を目の前にして、私の頭の中は真っ白になってしまっていた。
この人が。
意識の空白の中で、それだけが浮かび上がってくる。
この人なんだ、と。
無言のまま立ちつくしている私を見つめる男の目。
その色の薄い青の瞳も、今、驚きに見開かれている。
お互い瞬きもせずに見合ったわずかな時間。
制止した時間を動かしたのは男の方だった。
「チヨ」
心臓が凍ったかと思った。
それほどに衝撃だった。
男の薄い唇から飛び出した、その名前。
男の中音の声ははっきりと、私に向かって「チヨ」と言った。
私のことを「チヨ」と呼んだ。
その名前を知っているのが、何よりの証明だと思った。
間違いない、やっぱりこの人が――そう思った瞬間、私の心臓は冷たい炎が燃え立ったように、どくん、と大きく脈打つ。
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