千代の夢

宮条 優樹

第一話


   


 横浜へ、私は独りその屋敷を訪ねた。

 最低限の持ち物だけつめた手提げカバンの他に、冷たくこごった決意を抱えて。


 大きな横浜の街中は、雑多で喧噪があふれ、私は目を回しそうになりながら、不慣れな人波を懸命にかき分けて進んだ。

 行き交う人、飛び交う言葉。

 洋装の紳士と着物姿の女性がすれ違い、駅の待合所では黒髪の中に金髪や赤毛の人が混じっている。

 街中で交わされる会話から聞き取れる日本語に時折、英語や仏蘭西フランス語、独逸ドイツ語が割り込んでくる。


 元号が明治となったのが私の生まれる前のこと。

 維新、開化から二十年を超える歳月が過ぎ、今この明治の日本では、外国からやって来たさまざまなものがもう随分となじんでいた。

 外国の言葉、外国の食べ物、外国の服、建築、学問。

 日本から海の向こうへ出かけていく人以上に、海の向こうから日本へやって来る人がたくさんいる。


 幕末に開港場となってから、横浜は今でも世界への玄関口なのだ。

 私にとってははじめての横浜、初めての都会だ。


 人波の中、大柄な外国の紳士とすれ違った瞬間、私は思わず身をすくませていた。

 この街にいると、自分がとてつもなくちっぽけな存在になってしまったように感じる。

 日本という国に外国から押しかけてきた人、人、人。

 日本のちっぽけな田舎で生まれ育った、今年ようやく十五歳になったばかりのちっぽけな小娘は、うっかりすると誰にも気づかれないまま押しつぶされてしまう。


 世間というのは、世界というのは私なんかの目では見通せないくらい、広く、大きく、途方もないものなのだと、今更ながらに実感できた。

 都会のめまぐるしい動きは、私の生まれ育った田舎まではなかなかたどり着かない。

 この明治二十三年、いろいろな出来事が起き上がっているのだけれど、そのことをただの知らせとしてではなく、今ようやく私は実感できた。


 大日本帝国憲法が発布されたのが去年のこと。

 今年は政府の公約が実現されて、国会が開設、初めての衆議院議員総選挙が行われた。

 そして教育勅語の発布。

 次々に飛び出す新しい決まり事をきちんと理解している人なんて、私の田舎ではほとんどいない。


 東京と横浜の間で初めての電話の交換が行われたとか、日本中のさまざまな品物を集めた内国博覧会が開催されているとか、聞き知ってはいても、それはどこか遠い出来事のように思っていた。

 私の飛び出してきた田舎では、去年ようやく鉄道が開通した。

 線路と停車場ステエシヨンが完成したときのお祭り騒ぎを思い出して、私は急にいたたまれなくなった。

 田舎の鉄道などものではない。

 横浜の鉄道は私の生まれる前に完成していたし、街には煉瓦レンガの建物が並んでいて、広い通りに馬車も走る。

 大通りの端に等間隔に並んだ、冠をかぶせたような格好の柱は瓦斯燈ガスとうなんだろう。

 夕暮れになれば、あれに点燈夫てんとうふが火をつけて歩くのだ。

 私は見たことのないその黄色い灯りの様子を空想した。


 見渡せば、道行く人々の装いもさまざまだ。

 山高帽にステッキ、黒いフロックコートを着こなした紳士。

 とんびの裾をひるがえして歩いて行く着物姿の男性。

 詰め襟の制服姿の青年もいる。

 女性たちは、流行の小紋や矢絣やがすりの着物。

 深川鼠ふかがわねず海老茶えびちゃ臙脂えんじ色の着物姿の中に、リボンやレエスを飾った洋装の婦人が混じる。

 紫や薄桃、青のドレスは目にも鮮やかだ。

 西洋風の制服を着て立っているのは、馬車の馭者か駅員だろうか。

 人のざわめきの向こうから、馬車の発車を知らせるラッパが響いてくる。


 不意に、ドンッ、という足元を揺らすほど大きな音が響いて、私はとっさに身を縮こませた。

 号砲だ。

 正午を知らせる空砲の音に、私の意識ははっと目的に立ち返った。

 浮かれ気分で呑まれてしまってはいけない。

 私には横浜に来た目的があるのだから。


 ドン、ドン、ドン――。


 号砲が腹に響く。

 私は手提げカバンを持ち直して、背筋を伸ばして前を見据えた。


 号砲の音に背を押されて、私は気持ちを奮い立たせると大通りを足早に進んでいった。

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