第7話 別離
「そう、それは良かった」
青木さんと結婚したい——そう伝えた時のキリはあっさりしたものだった。あんたを殺して私も死ぬ! なんて包丁を持ち出されないかなんて少し緊張していたのだけれど、杞憂だったらしい。キリの行動はここに移り住んだ時同様淡々としていた。
「家を探さなきゃならない。前の家が空いていればいいんだが。待ってくれ、今大家に聞いてみる」
キリがベランダへスマホ片手に出て行った。倫が不安げに私を見上げた。その頭を撫でる。
一番心配なのが倫のことだった。父親の死を理解していないとはいえ、長い間いない寂しさを埋めてくれたのは紛れもなくキリだ。そのキリから離れる——恐らくもう2度と会うことは叶わないのではないか。その時倫が深く傷つくんじゃないか。しかし5歳の記憶などすぐに消えてしまうもの。キリのことも忘れて、すぐに青木さんとの生活に慣れてくれないかしら、なんて楽天的な考え方もあった。だが、慣れるまでが大変だろうという覚悟も同時にあった。
ガララとベランダの窓が開く音がした。
「前の部屋、まだ空き部屋らしい。手続きさえ済めばまた住むことができそうだ。まあおそらく今週末には荷物を運べるんじゃないか。業者に連絡もしないとな」
予想以上、いや、いっそ不自然に見えるほど、キリは淡々としていた。私の目を見ないのは最近では慣れたものだが、それが徹底している。
「キリ、ちょっと、あっさりしすぎじゃないの」
「なぜ、新しい扶養者が現れたならアウトサイダーは早々に消えるべきだ。元々君にとっては招かれざる客だったろう。これで晴れて私を追い出せる。おめでとう、祝儀をいくらか置いて行くよ」
「どうしてそんな言い方……」
私が非難がましい目線でキリを見たのがいけなかった。
キリが両手で強く机を叩いた。空気を裂く音に、息が止まった。倫がただならぬ気配に震えながら、私に飛びついた。
「キリ」
「どうして、だと? 君は、いつもそうだった。私のことを知ってか知らずか、思わせぶりなことばかりして。その度に私が傷つくことなんて御構い無しに、むしろ私が喜ぶと思っているからタチが悪い。これまでの生活は歪んでいたよ。なぜってこれは偽物だからだ。こんなもの、ごっこ遊びにすぎない。私も最初からそのつもりだった。それなのに、君は家族になってもいいなんて言う。私の欲しかった、本当の家族。その果てにこのざまだ。君の経済的弱点に漬け込んだことは謝る。祝儀を慰謝料とでも思ってくれ。だが、君も君のその類稀なる良心で私の下卑た心を傷つけたことを忘れないでくれ」
ふえ、と小さな泣き声が聞こえた。倫がキリの剣幕に泣き出したのだ。
キリの鋭い視線が和らいだ。
「私が生涯背負わなければならない罪は、この幼い子に辛い思いをさせてしまうことだ」
キリがリビングを出て行った。
倫が火をつけたように泣き出した。
私、なんてことをしてしまったのだろう。
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