第3話 発熱

それから半年ほど経って、キリとの奇妙な同居生活にも徐々に慣れて来た。あれから季節は二つ進んで、冬になった。倫は遊園地の観覧車以来、キリにすっかり懐いて、大抵夜8時過ぎに帰宅するキリを玄関前で待ち構えている。

そして私はパートを始めた。夫の母親、つまりお姑さんがある法律事務所の事務の仕事を工面してくれたのだ。実の両親よりも、彼の両親の方がよっぽどよくしてくれるとは、とても皮肉なことだが。簿記の検定を取っておいて良かった、と今ほど思ったことはない。もっとも、お姑さんにもキリの存在は言えていないのだが。

でも、キリのおかげで夫の生命保険は貯金できてるし、私もパートを始めたから、一緒に買い物に行った倫に好きなお菓子を一つ買ってあげる余裕もある。

パートの仕事も順風満帆。あっという間に仕事にも慣れ、職場の人たちもいい人ばかりで、ちょっと時給は低いけどそれでも全然平気だった。

そんな生活が続いていたある日のこと。電話を取るのも私の仕事。しかしその時なったのは事務所の固定電話ではなく、自分のスマートフォンだった。背中を丸めて泣き叫ぶスマホを隠しながらこそこそと外へ出る。

そっと発信者を見ると幼稚園、と表示。まさか、倫に何か? と嫌な予感が頭をかすめる。おそるおそる通話ボタンを押して、耳に流れ込んで来た向こうの声音は思いの外穏やかで安堵した。

「倫ちゃん、お熱が出てしまって。お迎えをおねがいしたいんです」

「ああ、そうでしたか。熱はどれくらい……?」

「さっき測ったときは37度5分でした。けれど、これからちょっと上がって来るかもしれないですね」

「そうですか……分かりました。すぐに行きます。ご迷惑おかけします」

通話を終了させて、自分の事務机にスマホを置いた。

そして一番偉い所長先生の机に向かう。

「あの、じつは……」

「あら春川さん、ちょうど良かった。今から私ちょっと事務所を空けなくてはならなくて。他の先生もみんな出払っているからお留守番、おねがいね」

「あっ、えっ……」

私の狼狽なんて気付かないで、先生は慌ただしく行ってしまった。困ったことになった。

ここを放って熱を出す我が子を迎えに行くわけにもいかない。かと言ってすぐに行きますと言った以上、我が子を放っても置けない。

こんな時に夫がいたら……そうぼやいた瞬間に思い出した。

キリがいる!

私は急いでキリの携帯にコールする。昼休みの時間帯だったからか、キリはすぐに電話に出てくれた。

「もしもし」

「あっ、キリ? 今平気なの?」

「平気だ」

ぐしゃぐしゃとビニールを丸める音がした。あっ、また菓子パンで昼を済ませたな。いつも不健康そうなコンビニ菓子パンでは栄養が心配だから、弁当を作ると言っているのに。

「君に弁当を任せるともれなくトマトをぶちこまれる。リスク回避の一環だ」

仏頂面が歪んだあの晩を思い出す。っと、それどころじゃない。

「あ、忙しかったりするかしら?」

「迂遠な聞き方をしないでくれ。帰りのおつかいか?」

「それが……今、どうしても仕事場を離れられないのだけれど、さっき幼稚園から倫が熱を出したから迎えに来て欲しいって連絡があって。ひどいようなら病院にも連れて行ってやりたいんだけど、いつ手が空くか分からないのよ。病院はいいから、倫を迎えに行くだけ行ってくれないかなと思って連絡したの。そのあとはすぐに仕事に戻ってくれて構わないのよ。多分、一、二時間なら倫も一人で寝ていられると思うし私もそれくらいしたら多分戻れると思うし……」

「午後休をとれる。病院にも連れて行くし、倫のそばにいる」

「そんな、悪いわ」

「私は君たち親子を扶養すると言った。これは扶養の一環だ。君が気に病む必要はないし、恩を感じる必要もない。今から行く、幼稚園の住所と、これから私が行くことは向こうに連絡しておいてくれ」

そこまで叩きつけるように言うと、キリは乱暴に電話を切った。怒ったのかな、と思ったが約束通りラインで幼稚園の住所を送った。既読はついても返事はなかった。

幼稚園にキリが行くことを連絡すると、怪訝そうな態度はされたけれど、キリとの関係を詮索されることはなくて、それにホッとしている自分がいた。

もし、キリのことを聞かれていたら、私はなんて答えたんだろう。

なんとなく自己嫌悪に陥りそうなところに所長先生が帰って来た。

「あらいやだ、ごめんなさいね。終業時間過ぎてたのに」

「いえ、それではお先に失礼します」

知らない間にあれから1時間が経っていた。


あの乱暴な電話の切り方から、なんとなく家に帰るのが気まずかった。怒ってたらやだな、とか考えて、子供かよ、とまた気分が沈む。

内心とは裏腹に、体は自宅へ向かっていたから、当然自宅のドア前に到着する。

意を決してガチャリとドアを開けた。鍵は開いていた。

そろり、と体を滑り込ませる。

「ただいま」

「おかえり」

キリは敷布団に寝かせられた倫のおでこに冷えピタを貼っていたところだった。

「疲れからくる軽い風邪だと言われた。さっきゼリーを食べて薬も飲ませたから、じきによくなるだろう」

騒がしい倫が大人しく寝ているので部屋は静謐な雰囲気が漂っていた。

「あのさ、ごめん……ね」

「なぜ? 私は気に病む必要はないといったはずだ」

「いや、キリは平気って言ったけど、あんまり急に電話が切れたから。本当は忙しかったのに無理させてしまったかもしれないと思って」

「ああ……」

キリが所在なさげに視線を彷徨わせると、小さくむせた倫がうすら目を開けた。

「ママ」

「倫、ごめんね。迎えに行けなくて」

荒い息遣いのまま、倫が力なく笑みを浮かべる。痛々しくて涙が出る。

「あのね、キリが、抱っこしてくれたの、それで、倫ね、泣かなかったの、病院」

ケホケホと倫がむせたので、そっと倫を撫でて寝かせ、布団をかけ直す。

再び微睡みに落ちていった倫を見てほっとする。

隣に座っていたキリを横目で窺うと、倫のことを穏やかな表情で見つめていた。ここにきてからずっと張り詰めた顔しか見ていなかったから、柔いその表情におどろく。

「キリ」

「……私は、怒っていたわけじゃない」

「でも……」

「慌てたんだ」

「慌てた? やっぱり仕事が立て込んでたから……」

「そうじゃない。インフルエンザかもしれないと思ったんだ」

「でも、予防注射だって打ってたのよ」

「私がそんなことを知っているか。小児や高齢者がインフルエンザに罹患した場合、稀ながら成人よりもずっと重症化や死亡のリスクは高くなる。体力や免疫力が劣るからだ」

「おおげさな……」

「それに」

キリが手の甲でそっと倫の顔を撫でた。

「弱っているこんな子を一人にしておくなんて出来ない」

荒い寝息を立てながら眠る倫を見てハッとした。

「そっか……そうだよね。寂しかったね、ママ、いないの」

夫が死んでからというものの、私が仕事を始めたせいもあるが、倫と過ごす時間が減っていたのは確かだ。キリがいるから穴埋めはできてる、なんて都合よく捉えて、私がいったのに。キリは夫の代わりにはなれないって。それと同じ、倫の母親は、春川千依以外誰もできるものじゃない。

手のかからないいい子は、手をかけてもらうのを諦めた子供だ。

「ごめんね」

ポツリと涙をこぼした私の背中を、柄にもなく慰めるようにキリが撫でてくれた。

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