第2話 観覧車
告別式が月曜日だったから、もっと先だと思っていた日曜日は案外早くやってきた。
倫の幼稚園は今週休ませた。周囲に気を使われるのも嫌だったし、倫を送り迎えするのも億劫だった。
昨日のうちにキリの引越しは概ね終えていた。本当に荷物が少なくて驚いたが、住んでいたアパートは家具付きで、それ以外の私物も大抵は処分してしまったらしい。
倫は久しぶりに外出するからかほんの少し嬉しそうだ。キリはいつもスーツ姿しかここらは見ていなかったけど、遊びに行くときはさすがにスーツじゃない。とはいっても黒のパンツにブラウスといった簡素なファッション。すらっとした高身長の彼女には似合っていたが、女っ気はなかった。
「行こうか、倫」
倫ははにかんで右手で私の手を掴んだ。宙ぶらりんになった左手。本来なら、夫がしっかりと握っていたはずの小さな手。
その手を、今、キリの乾燥した手が掴んだ。
「駐車場、危ない」
なぜか言い訳がましくつっけんどんにキリが言った。
倫はまだキリとの距離感がつかめないでいる。けれど、その距離はちょっとだけ縮まったように見えた。
市営の小さな遊園地までは、キリが夫の車を運転して行った。
夫の代わりにはなれない、とキリには言ったが、こうしてみると、ドライブが好きだった敬太の姿を思い出す。
その大好きな車に殺されるとは、思っても見なかったろうに。
遊園地に着くと、まずは観覧車が目に入った。実は倫はまだ観覧車に乗ったことがない。敬太も私も高所恐怖症で、どうしても観覧車はどれだけせがまれても乗ることができなかった。そのせいか、最近はもう乗りたいとせがむこともなくなった。
メリーゴーランド、ゴーカート、お昼ご飯にはホットドックにソフトクリーム。久しぶりに見た倫のはしゃぐ姿。乗り物やアトラクションには私と倫を乗せて、キリはその様子をじっと見ていた。時折、スマホのカメラレンズをこちらへ向けたかと思うと、無造作に何枚かシャッターを切っていた。倫のキリへの強張りはあったが、はしゃぐうちにそれも麻痺してきたようで、キリのスマホに向かってピースのポーズをきめることもあった。
夕刻が近づいてきた。
徐々に正門の方へ引き返して行く家族づれが目立ち始めた。
そろそろ、私たちも帰ろうか、と思った時、観覧車の前を通りがかった。
「観覧車は?」
「だめ!」
摑みかかるような口調で、キリを咎めた。表情を変えないキリが珍しく驚きの色を顔にだした。
ハッとして倫をみる。
「乗りたいの……」
懇願するような眼差し。けれどどうしても観覧車だけはダメ!
「ママ、高いところ怖い怖いなのよ。ごめんね、倫」
ふぐ、と倫の顔が歪んだ。
夫がいないこともあって、いつもは我慢できることに、我慢がきかなくなっている。
かわいそうだが無理に連れて帰るしかない。倫の手を引こうとしたとき、反対側の手が引かれた。
「私でよければ一緒に行くか?」
驚いて目を見開いた拍子に、倫の瞳からぽろっと軽快に涙が落ちた。
「キリと?」
初めて倫がキリのことを呼んだ。
「無理よ、倫、観覧車乗ったことないんだから」
「無理かどうかは乗って後悔すれば分かること。大泣きしたっていつかは一周が必ず終わるんだから、そう気負わなくてもいいだろう。あとは倫の気持ち次第だ」
倫は私の顔と、キリの顔を交互に見比べて考えあぐねている様子だった。倫にとってのベストは、私と観覧車に乗ること、だけど、せめて観覧車に乗ると言う欲求だけ叶えることにしたらしい。不承不承ながら、キリの差し出した手をとった。私は不安を抱えながら、係員の開けたゴンドラのドアの中に消えて行く二人の背中を見送った。
一周約15分。ここ最近で一番長い15分間だった。キリたちの乗ったピンクのゴンドラが頂上に来た瞬間など、心臓がつぶれそうだった。ほんの少しゴンドラが揺れただけで、恐怖で倫が暴れているのではないかと心配は募った。
ドタドタと慌ただしく倫は出口から飛び出して来た。
その表情は予想に反して晴れやかだった。頬に残る涙の跡を見るに、一応泣いたことはわかる。
あとから倫から聞いたところによると、開始早々は良かったのだが、4分の1ほど上昇したところで、血は争えないものだ、思いがけないほどの高さに倫は泣き出した。そこでさっと、キリは倫の目を覆ったらしい。一番綺麗な景色が見えるところで離してあげる、と約束して。それまでキリにしがみつき、じっとしていた倫だったが、離すよ、という声におそるおそる目を開けると、眼下には地平線の向こうに沈む夕日、正門に向かう人の群れ、そして、それを見ているキリの笑顔。いつもの仏頂面とは異なり、ませたことに案外可愛い顔だと思ったらしい。
それは観覧車のてっぺんだったのであとは下がるばかりで怖くはなかったと。
「怖いことを乗り越えれば綺麗なものが見えることもままある。でも、怖いことから逃げることは恥じゃない。楽に生きればいいんだ。人間なんてものは」
4歳の子の証言だから、原文ママとはいかないかもしれない。でもキリは笑いながら、そんなことを言っていたと、倫は嬉しそうにたどたどしく語った。
暗い道を無言でキリは運転する。沈黙の支配する車内は、疲れ切って眠った倫の寝息だけが規則正しく響いていた。
「ねえ、明日夜ご飯いるの?」
自然と私はキリに尋ねていた。こんな日曜日の帰り道は、いつも夫に尋ねていたことを。
「……いる。好き嫌いはない。強いていうならトマトだけは勘弁してほしい」
そう、なら、明日は生鮮食品が安いスーパーで、ミニトマトを買っておこう。
仏頂面がしかめっ面に変わる様子を想像してなんだか笑えてしまった。
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