家族ごっこ

葛原 千

第1話 始まり

夫が交通事故で死んだ。夏の暑い日だった。残されたのは4歳の娘、りん。26歳、専業主婦、学生結婚のために、職なし貯金なし社会経験なし。無い無い尽くしで途方にくれる私、旧姓、春川千依はるかわちより

夫、御園敬太みそのけいたの葬式を、なんだかよくわからないまま済ませた私の前に現れたのは——

「久しぶり。いきなりごめん、千依と倫ちゃん、一緒に住まないか?」

成人式以来会っていなかったかつての親友、鳴海なるみキリの思いがけない提案だった。


病院から連絡があって、今こうして夫の骨が入った骨壺を仏壇におくまで、全部夢だったかのようにあっという間だった。

ひき逃げだった。相手が逃げなければ助かったかもしれないのに。でも、死んでしまったものは帰らない。戻らない。これから倫をどうしよう? パートに出るのも限界がある、かといって正規雇用なんてとても無理。

実家を頼るべきか、でも半ば駆け落ち同然に敬太と結婚したから、今更どのツラ下げて?

悲しむ間も無く残酷に現実は迫る、はずだった。

前にははにかんでいる夫の遺影。横には小さな娘。そして後ろには、何年振りかに再開したかつての友。異様な状況だ。

「私の部屋だと3人で暮らすには手狭だろう。こちらに私が移ろうか」

キョロキョロと部屋の間取りを見回しながらキリが言った。

葬式が終わり、片付けに追われていた私に近づいて来た背の高い細身な影、それが彼女だった。幼少の頃からの仲ではあったが、お互いに忙しく成人式以来顔は合わせていなかった。キリは私がこれからのことは何も見通しが立っていないと知るやいなや、私たち親子の『扶養』を申し出た。

「私は大学を出た後、公務員としてK市の市役所職員になった。主婦と幼子一人はこれまでの貯金もあるしなんとか養える。そして、なぜ君を援助するか、それは私が君を恋愛感情として好いているからだ。援助に関しては下心といっても誤りではない。しかし同居は家賃の節約その他諸々からくる完全に合理的判断であり、私は君に一切危害は加えないと誓う。第二になぜこのような秘密の暴露をするかだが、後からバレた際に裏切られただの騒がれるのは双方にとって面倒であるし、これから同居する君に隠し事をするのはフェアじゃない。よって最初から全てを話しておくことにした。重ね重ね言うがこのような感情は持っていても君とは必ず親友として接することを誓う。以上」

能面のような表情でキリは演説した。私は固まってしまった。

キリは小さな頃からこういう子だった。小難しい言葉で喋って、生意気で、だけど、キリといると面白いことがたくさんあった。だからキリと一緒にいた。友達として。でもキリはそうじゃない、私を好いた相手として共にいた。

こんなこと思っちゃダメって思ってるし、いけないことだってわかってる。けど、やっぱりちょっと、ゾッとした。キリはふてぶてしい表情の裏で、同性の私とキスしたいとか、性的接触とか、そういうものを夢見ていたのかと思うと。そんな相手とこれから同居。経済的な不安はほとんどなくなる。でも、と躊躇して彷徨った眼差しが、少し離れた場所の椅子で、縮こまっている倫に止まった。葬式中、ずっとパパは? パパは? と不安げにこちらを見上げていた。4歳児に死の概念は伝わらない。父親が突然いなくなった寂しさ、そして、これからの養育費。二つの埋め合わせをキリはきっとしてくれる。

私はこの娘をこの世に産み落とした責任として、この娘が自立するまで育て上げなければならない。

しかも、キリは何度も誓ってくれた、何もしない、友達として接すると。今はそれを信じるよりほかなかった。

「——分かった。これからお願いする」

決まりだ、と頷いたキリのボブカットの毛先が揺れた。

そうして倫とキリと3人で帰って来た自宅。倫はキリという異質な存在に戸惑って、私のそばを離れようとしない。

「荷物は今週の日曜に業者に頼む。日曜日、何かあるか?」

「いや……なにもないわ。今はなにも」

夕刻になる直前の時間帯だったが、かろうじてまだ受付時間内だったらしい。なぜかは知らないが、手慣れた様子でキリは業者に電話で手続きを行っていた。

淡々と電話口と会話しているキリを横目に、隣にいた倫が喪服の裾を引っ張った。

そちらに目を向けると、てっきりこちらを見上げていると思っていた大きな瞳とは目が合わない。俯きながら、「だめなの」とずっとつぶやいている。

「なにがだめなの?」

「日曜日はパパと遊園地に行くの。ママも行くの」

そういえば一ヶ月前に夫と倫がそんな約束をしていた気がする。休み取れるように頑張るからな、と休日出勤もザラだった敬太の笑顔がまざまざと脳裡に蘇る。

「パパ、遠くにお仕事だから、遊園地にはいけないのよ。ごめんね、パパもごめんって」

もちろん遠くに仕事になんて行っていない。死んだと伝えるのは、もっと倫が大人になってからでいい。

そう、まだ倫は4歳なのだ。幼子なのだ。

俯いていた顔がこちらに向けられた。合うべくしてあった瞳は涙でたっぷりと満たされて、歪んだ瞬間、大粒の雫がふくふくとしたほっぺに伝って落ちていった。

やだの、やだの、と泣く泣き声はいつもより小さい声だった。

自分の父の死んだことは理解できていなくても、幼子なりに感じるものがあったのかも知れない。

「行こうか、遊園地」

泣いていた倫の身体が強張った。

いつの間に電話を終えたのだろう。こちらを見下ろしたキリが倫を見つめていた。そっと倫が私の背後に隠れる。

「キリ、引越しが先よ」

「荷物は土曜に運び入れる。そう荷物が多いわけじゃない。昼休みかなんかを使えばアパートの解約もできる。日曜日でなくてもかまわない」

「キリ、あなたは夫じゃない。こんな言い方よくないことは分かっているけれど、キリは敬太にはなれない。この子のパパにはなれない」

キリは少し眉をひくつかせた。けれど、相変わらずふてぶてしい顔は崩さなかった。

「倫ちゃんの願いはパパと遊園地に行くこと。確かにパパを連れてくることはできない。私がパパになるのも無理な話だ。だが、遊園地に連れていってやることはできる」

押し切るような強い口調だった。

「お姉ちゃんでいい」

口を挟んだのは倫だった。

「倫」

「我慢するの」

「倫ちゃんのお許しが出た。決まりだな」

倫は不機嫌そうにそっぽを向いた。

「この子、ちゃん付けで呼ばれるの嫌がるの。呼び捨てでいいのよ」

「分かった」

倫のサラサラとした髪を撫でる。

通夜と告別式と二日間いっぱい我慢をさせてしまった。せめてもの気晴らしになればいいか。

倫の毛先で遊んでいたような手をどかされる。代わりに倫の頭を乾燥した痛々しい手でキリが撫でた。倫はまた身を硬くした。そんな倫の様子にも御構い無しにキリは得意の演説を垂れる。

「倫、でいいのかな。私の名前は鳴海キリ。ママの古い友達だ。呼ぶときはお姉ちゃんなんて呼ばなくていい。キリと呼びなさい。理由は君と同じだよ。パパの代わりにはなれないし、代わろうとも思っていない。だが、これから一緒に暮らして行くことになる。パパにはなれないが、君の拠り所にはなれるかもしれない。遊園地、楽しみにしているよ」

くしゃくしゃっと倫の髪を乱すと、不動産屋に連絡してくるとベランダにキリは出ていった。

初めて出会ったとき、二度とキリちゃんなんて甘ったれた呼び方するな、とあどけなさの残る顔を歪めたキリの顔を思い出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る