第3話 鋼鉄の指
実際のところ握力は平均男子ていどの50kgしかない。ゴリラの500kg以上ともいわれる握力には到底およばない。
しかし握力計では測れない握力が常人離れしていた。
握力は
某空手家の真似をして親指一本で腕立て伏せをすれば30回はできた。まあ普通の腕立て伏せでも30回が限度なのだが……。
『コリ楽門』で修はエースを自負していた。
二十代前半と若く、力まかせに
当然ながら揉み返しもある。
強く揉まれるとあとから筋肉痛のように揉まれた箇所が痛みだす。これが揉み返しだ。
それでも修への指名は次から次へと引きも切らない。
それはどんな頑固な凝りでもローラーをかけるように潰していくからにほかならない。
現代の肩凝りは昔とは様変わりし、パソコンやスマホの操作によるものが多い。おしなべてダメージは蓄積し深化している。
限られた時間で最大限に効果を発揮させるには凝っている部位に届かせる必要があった。
そのための剛力と割り切っている。
この日は珍しく修の指名が途絶えた。
急用が出来たとかで予約がキャンセルされたのだ。
『コリ楽門』のシステムでは出勤順に客に当たり施術が終われば最後尾について順番待ちとなるが、指名を受けた者はそのままの順番で待機となる。
したがって指名客ばかりの修は常に一番に位置していた。
飛び込みの客があればそれは修の客ということだ。修の次は秀平という爺さんが待機していた。
膝痛持ちのハゲ頭だ。
この世界、揉んだ時間が実力の差となるというがさすがに体力的にきびしい年齢となっていた。
小遣い稼ぎに来ているらしいので順番を譲ってやろうかなどとちらり考える。
が、ドアを開けて入ってきたのはうら若き女性だった。
「いらっしゃいませ!」
修は満面の笑みで出迎えた。順番を譲るなどという考えは消散してしまう。
「初めてなんですけど」
細い声で女がきりだした。
まずは会員登録をしてもらい怪我や大病の有無を確認する。
名前は静香。名は体を表すのことわざどおり華奢で物静かな印象だった。
とくに病気はないというが血色が悪かった。
腺病質とでもいうのかなまじ美人なだけに
揉み始めてからその印象は強くなった。
「痛い」
施術は首から始める。その最初のひと揉みで静香は小さな悲鳴を上げた。
「失礼しました」
修は慌てて手を緩める。
「では弱めにします」
慎重に再開する。だがすぐに「あ」と声を上げ制止するように手が
そんなことが何回も繰り返されしまいにはただペタペタ触っているだけという状態に成り果ててしまった。
(自分は何をしているのだ?)
修は嫌な汗が吹き出してきた。
(これがマッサージといえるのか)
触った感じ確かに凝っている。いや凝っているどころではない張りつめて千切れる寸前のゴムのような感触さえある。
(それなのにこんなに痛がられては揉むことも押すこともできないじゃないか)
タイマーに目を走らせるとまだ3分も経っていなかった。
コースは60分だ。
(60分後この人は満足して店を出ていけるのか?いや無理だ!)
自慢の鋼鉄の指が所在なさげに首すじをさまよう。
(どうしたらいい……この人に何もしてあげられないのか)
己の技量の低さに気づかされ
指名客とはいわばリピーターである。
手慣れた環境に甘えて精進を怠っていたのではないか。
力に頼り過ぎていたと今さら後悔してもこの状況をなんとかできるはずもなかった。
咳払いがした。
顔を上げると秀平爺さんがアル中患者のように手を震わせていた。
(
マッサージの手技にはいくつか種類があり揉みほぐす
試しに軽く指先を震わせてみる。
「ああ気持ちいいです」
静香が嬉しそうにつぶやいた。
「もっと上手な人がいるので交代しますね」
修は潔く撤退することにした。
秀平の手技は圧巻だった。
指先で震わせる、掌で揺する、細かく振動させ、大きく波打たせ収縮していた筋肉、筋膜を弛緩させていった。
バイブレーターのような微細な振動では得られない肉の束をほぐすうねりが静香の全身を駆け巡った。
さらには圧迫法も織り交ぜバターを溶かすように凝った部分を融解させてしまう。
施術が終わり起き上がった静香の顔色は血の気がさし赤らんでいた。
「あとで水分を補給してください」
そう言い置いて秀平は肩から背中にかけて
修が二つの紙コップに水を注いで待ち構える。
マッサージは揉む方も揉まれる方も水分を失わせるのだ。
「普段から水分を
「はい」
秀平に指摘され静香が驚いたように肯定する。
「ご婦人方は水分をひかえることが多いので体調を崩しがちなんです」
こまめな水分補給をアドバイスして秀平は静香を送り出した。
「ありがとうございました」
修は最敬礼で秀平に感謝した。
そして手技を伝授してもらえないか頼んだ。
「教えないよ、勝手に盗めばいい」
秀平は腰の後ろを叩きながらヨタヨタと控室に戻っていく。
「儂の師匠は目の不自由な按摩でね、うまく教えることができないから好きなだけ盗んでくれと言われたよ」
思い出したように立ち止まりため息をついた。
「十分の一……いや百分の一も盗めなかったなぁ」
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