ep.「 aviation 」
あの「よき日」から、しばらくが経った。
青年、リュカは時には毎日のように、来ない時期でも数日おきにバーに来ていたのだけれど、不思議とこのしばらくの間、私たちが言葉を交わす暇は、なかった。
彼が扉を開けた時、「いらっしゃい」と、その時私が立っている目の前の席に案内し、さて何から聞き出そうか、などと私は考えたものだったが、決まってその直後には団体客が来るなり、カウンタの端の席がお気に入りの常連客が来るなり、なんなりがあって、私はせっかくの時間を彼ではない誰かのために費やさなければならなかったのだ。私にとっての彼はまだ特別などではなく、ただ他の、いわゆる「普通」の誰かとは違うかもしれない、私の知らない、今まで接していないタイプの人間かもしれない、というそれだけのものだったのだが、ただの客との会話のために、自分がここまで、「今日も話せなかった」など考えていることが、そもそも新鮮な感覚だ。
そんなことを考えながら、この「しばらく」のことを思い返しながら、ロックアイスを削る。
彼が扉を開けたのは、その直後のことだった。かつ、かつ、とロックアイスを削り、照明に透かして美しさを楽しんでいた時のこと。
軽快なドアベルの音と共に、あの騒がしい声と、青年の、すこし高めで、甘えたような響きのある声がした。
「こんばんは、ランスレットさん。」
「こんばんは、リュカ。今日もいい夜だね。」
そうして、私は手に持っていた氷の塊をアイスペールへと仕舞い込む。リュカは、もう分かっている、というように嬉しそうに、いつものように、私の目の前の席に腰掛けた。
きっと今日も、この後に会話を楽しむ時間などはないのだろう。そんな予感が、ぼんやりとあった。
「私がいない日も、来てくれていたようだね。悪いことをした。私も、いつでもいる、というわけではないのでね。話す時間も今まであまりなかったし、君さえよければ、今晩、閉店後に家に来てくれたらと思うのだけど、」
デュボネとシェリーのボトルを並べ、メジャーカップを、中指と薬指の間に挟む。リュカは私の指先を見ながら、なんとも嬉しそうな顔をしていた。
「……私の家はね、ここから少し離れた丘にあるんだ。朝焼けがとてもきれいに見える。」
私の好きな、霧がかった朝焼けの色をグラスに流し込む。アヴィエイション。ノルウェーからこちらへ来た時に、航空機から眺めた朝焼けの色と、私の家から見えるそれがよく似ていて、好きなのだ。と、話しながら、それを閉じ込めたショートグラスに朝陽代わりの小さなカットオレンジを添えて、彼の前に差し出した。
「で、どうかな。また日を改めた方がいいかい。」
「あ、いえ、今日、今日がいいです、ぜひ。」
拝啓、窓の向うから 魚倉 温 @wokura
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