ep.「 delighted 」02




 「では、一杯目は私に作らせてくれるかな。君の好みに合わせるのは、二杯目からでいいだろう。」

 少々ぶっきらぼうなランスレットの言葉にさえ、青年、リュカはまた表情を輝かせて、こくこくと何度も頷く。ランスレットには、その仕草ひとつをとってさえ、青年と己自身の差異を際立たせるものに思えて、腹立たしい。


 それからしばらく。ランスレットが、カウンタの背に置かれた数多の酒瓶から選んだ数種類のとろりとした液体を丁寧に合わせ、カクテルを作る間も、リュカは期待に満ちた目で彼の所作をじっと見たり、そわそわと店内を見渡したりと、少々落ち着かない様子でいた。こういったバーに来たことはないのだろうか。ランスレットは、そんなことを思う。


青年の目の前には、夕焼けの色をしたカクテルグラス。ショートカクテルという部類の、逆三角形をした小さなグラスに閉じ込められた、「今日のよき日」の夕焼け。

脚が悪いがためにカウンタ内の移動にこそ時間をかけてたが、ランスレットは、リュカが感動すらおぼえるほど滑らかで優美な手つきで、酒のボトルを並べ、そこからシェイカーへ、とろり、とろりとそれらを入れた。その所作に見惚れている間にできたそれは、リュカにとっては魔法で作られた箱庭の夕焼けのようなそれは、マンハッタン、というカクテルだった。


 「どこで飲んでも、マンハッタン。揺らがず、ぶれないというのは、素晴らしいことだと思わないかね。リュカ。」

 

 その時呼ばれた名前は、青年、リュカが先ほど自覚したばかりの心の器に、溢れんばかりの感情をもたらした。初めてランスレットを見た時に、初めて、ランスレットに導かれた――といっても、席に、だけれど――時に自覚したそれが、怒涛の勢いで、何がなんだかも分からない、けれど決して不快ではなく、もっといえば、柔らかいのだかあたたかいのだか、なぜだかとても居心地のいいものに、満たされていく。リュカは、その気持ちの溢れるままに、彼の言葉にこくりと頷いた。彼にとって、名前を告げていないというのに知られていた、ということは、非常に些細な問題だった。それこそ、その事実にすら気づかないほどに。運命だ、と感じたその時から、リュカにとってのランスレットは、リュカにまつわる何もかもを知っていて不思議のないもので、リュカにまつわる何もかもを支配して、不思議のないものになっていたのだ。


 からん、と、ドアベルの鳴る音がした。ランスレットの顔が、来客のためにそちらを向く。彼を取られてしまうような、彼がもう二度と自分など見てくれないようなそんな気持にすらなったリュカは、ひとくちの夕焼けで、口を満たした。

そのとろみのある液体は、ふわりと鼻に抜ける風味の甘く豊かな、目を見張るほど美味しいものだった。その「美味しい」という感覚に、ふと、脳裏をよぎるものがあった。ランスレットは、来客にメニュー表をさしだしながら、笑みを含んだ目で、リュカを見ていた。リュカの表情はまさにバーテンダー冥利に尽きると言えるほどに輝いていて、それが、ランスレットには心地よかったのだ。劣等感などを感じていながらも、ランスレットにはプライドがある。純粋にそのプライドを満たされ、肯定された気分になって、ランスレットは、リュカが何を考えているのかも知らずに、ただ微笑んでいた。

 リュカを満たしたその感情は、先ほど名前を呼ばれた時に溢れた感情。リュカには経験がないがために形容しがたいが、それは単純で純粋な喜びと、それをもたらしたランスレットへの敬愛だった。それが、初めて感じた「美味しさ」につられるように、「運命だ」という言葉に結びついた。自分をこんなにも満たしてくれるのは、彼、ランスレットしかいないのだ、というぼんやりとした実感に、満たされた。自分の名前を、初めて、意味のあるもののように思った。自分の名前が、初めて、尊いもののように思えた。そして、自分の名前は、彼に呼ばれるためにあったのだと、納得した。

 リュカは、それまでのおぼろげな、実感を伴わない日々のことを、この日のためにあったのだと、思った。


 「……あの、名前…、お酒のではなくて、貴方の、名前を、」

 聞いてもいいですか、と、リュカが問うことすら予想していたようなタイミングで、ランスレットは応える。リュカにとってはそれすらも運命であるかのように思えたが、ランスレットにとっては、あまた走る思考の中の、リュカがとるかもしれない行動の可能性の、その一つにすぎなかった。

 「ランスレット、と呼びなさい。アンネセンでもいいけれど、あまりそちらは、呼ばれ慣れていないのでね。」


 二人のこの認識の違いは、決定的でありながらも、互いにとってはなんの不都合もない、そして、その認識と、それに至る経緯を互いに明かさないがためになんの違和感もない、自然なものだった。

 二人の関係性、力関係、そんなものが、このとき既に、できあがっていたのだ。


 ランスレット。

 口の中で転がす、その響き。

 ランスレット。

 大切な人の、大切な名前。それを腹の中に、奥底に仕舞い込むかのように、リュカはまた、カクテルグラスを傾ける。


 リュカ。

 その名前は、ランスレットにとっては新たに得られたサンプルの呼び名にすぎなかったが、その「サンプル」の稀少性がために、ランスレットは彼を逃すまいと、その名を声に乗せる。


 「リュカ、またおいで。今からすこし、忙しくなりそうだからね。あまり話している時間はないかもしれない。」

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