拝啓、窓の向うから

魚倉 温

ep.「 delighted 」




 ミディアムレアの赤身から、じわり、と、肉汁があふれ出す。上質な雌の脇腹から削り取った塊、昨夜のディナーの残りのそれを、燻製室に吊るして。

 男、ランスレット・アンネセンは家を出る。


 夕暮れが、目に刺さる。

 ニューヨークのビル群の隙間から射し込むそれに目を細めながら、彼はゆったりとした足取りで、新調したばかりのステッキを手に、歩き始めた。

 傾斜のある道を、足元を見ながら丁寧に一歩一歩、踏みしめる。美しい夕暮れの光は暴力的で、そうして砂利道を眺めながら歩くくらいがちょうどいい。きっと、街に出るころには落ち着いて、ぼんやりと堪能できるくらいにはなるだろう。

光は、視界の隅の街路樹を我が物顔で染め上げる。


 その日は、とても、とても穏やかな日だった。

 彼は前日に良質な肉を食べて、娘のようにかわいがる少女とそのディナーを共にしていたから機嫌が良かったし、夕暮れ前に家を出た時は、ちらと見上げた空が地平線のきわで赤く、燻製室に置いてきたあの良質な肉の断面のようにミディアムレアに焼けた色をしていて、美しかった。その光景は、もし彼が神やイエスを信ずる者ならばきっと、この日をそれらのものからの贈り物だ、と、感謝と祈りを捧げたろうくらいに、ただ美しかったのだ。

 もし、と仮定したのは、彼がそういったものを信仰しているわけではないから。彼のゆったりとした足取り、にもかかわらず、すっと伸びた背筋。それらが示す通り、彼が信じるのはおおよそ、彼自身のみだから。


 ミディアムレアの空が、バルサミコソースに縁取られ始めたころ、彼は「Closed」の看板のかかった、とあるバーへと辿りつく。

 彼がそこへ勤め始めてどのくらいが経ったか、彼自身、さして気にかけていないためではあるのだが、覚えていない。少なくとも、忘れてしまうくらいには長く、勤めているものだから、慣れ親しんだバーカウンタの中には、脚の悪いのを考慮して置いてもらった高めの丸椅子がある。それはちょうど、彼が膝をすこし曲げるだけで、脚を伸ばして、地面に足をつけるくらいの、彼専用の高さだ。

オーナーに軽く挨拶をして、いつものように、紺のワイシャツにサロンを巻いて、彼はそこに腰掛ける。そしていつものように、ロックグラス専用の氷をまるく削って、グラスを磨く。それから、しばらく。その日の営業分、使うだろうと見込まれるだけのロックアイスを十分に削ってしまうほどに、珍しく、客足は落ち着いていた。平日だからだろう、とはいえども、オーナーの友人たちが多く訪れるこの店には、曜日の感覚などあってないようなもの。普段ならばすくなくとも二、三人は、入っている時間なのだけれど。

ランスレットは、ぼんやりとした灯りの中で、時計の針の進むのを見ながら、柔らかな布でグラスを撫でる。ちらりと見たオーナーの寝顔は、二日酔いでカウンタにうつ伏せるそんな状況ながらも、心なしか、いつもより柔らかい。それは単純に、店内が静かだからか、それとも。


 出勤前、あんまりに美しい景色を見てきたからだろうか。いつもと違うのんびりしたこの時間、空間、光景が、すべて、今日が「よき日」であるためなのだろうか、と、感じるほどうすぼんやりと、得体のしれないながらに優しいものだった。

 バーの窓から見える街灯のひかりすら、いつもの辛気臭さを感じさせないほどにあたたかく、射し込む夕陽の名残りの色さえ、橙と薄紫の間で揺れている。こんな日こそ外出日和とばかりに常連の一人二人、来そうなものだとも思うが、誰一人として来ていないのだから、この「よき日」は、まるで私のためだけにあつらえたものであるようだ。彼はそんな、これまたうすぼんやりとした予感がために、ほんのりと微笑む。


 客が入らなくて困るのは、彼ではなくオーナーだ。彼の方はというと、客がいなければ動き回る必要もなく、もっと言えば脚が痛むこともなく、気楽でいいものだ。本来気楽であるはずのないオーナーがこう――つまりは二日酔いで突っ伏しているということ――なのだから、多少、従業員たる私の気が緩んでいたところで問題もないだろう。なんて彼は、もはや曇りのひとつもないグラスを、照明に透かしてみる。

 うすく橙に落とされたその光が、グラスの淵を流れるようにきらめく。ぴん、と張ったような音すら聞こえそうな、景色だった。


 彼がそんな手製のうつくしさを楽しんでいた、そんな折。来客を知らせるドアベルが、からん、と鳴った。その向こうの気配は「よき日」に似つかわしくなく淀んでいたが、そこから顔を出したのは、なぜ自分がここに来たのかも分かっていないような、まるで自分の意思でないものに導かれて扉を開けた、とでもいうような、あまりにあどけない表情をした、青年だった。彼は少々拍子抜けをしたような気持で、手に持ったグラスを置いた。

 その淀みと、いっそ間抜けにすら思えるほどにぽかんとした無垢な表情のアンバランスさに、彼は思わず笑いそうになってしまう。青年の不均衡が語るもの、それが何たるか、を、何度も経験して知っているからこその笑いでもあったが、ひとまず、それはぐっとこらえた。折角の、お客様、なのだから。


 「……いらっしゃい。」

 ここへおいで、と微笑むと、青年はそのぽかんとした顔のまま、ゆっくりと歩みを進めた。彼、ランスレットの目の前の席に腰を下ろしてなお、その表情は変わらない。彼には青年のなんたるか、その外郭だけとはいえ分かっているのだけれど、きっと青年にはまだ何一つ、分かっていなのだと思う。まだ年若く、そして、己というものについて終わらない問答を繰り返したことのなさそうな彼が、ランスレットにはいっそ、うらやましくすら思えた。

 その些細な嫉妬、彼の人生と、内省に由来するそれらは、それらが存在することすらまったく、欠片も知らない青年の内側に飼われた、もしくは棲みついたものが、「リュカ、リュカと呼んで」とあまりに無邪気に繰り返すから、すうっ、と、消えていく。


 青年は、どこかぼんやりとすらただよう視線で、ちらちらと申し訳程度に店内を見渡す。そして一瞬だけ、カウンターで眠るオーナーに目を止めて、それからは、ずっと彼の目を、それこを穴があくか、もしくは目の奥、脳の裏側を覗き込もうとでもしているように、じっと、見つめている。ぽかん、とか、きょとん、とか。コミックであれば、彼の顔のななめ上にでも描かれていようか、という表情で。

 純朴、といえば聞こえはいいのだけれどそれは、ランスレットにとっては愚かとすら言えるものだ。彼が青年を羨んだ理由がそこにあるのだが、それにしたって、そんな思考に至った己を恥じた方がいいのではないか。なんて、思うほどに、青年の表情は無垢だった。世の中というのは理不尽なもので、おおよその場合において、持つ者と持たざる者の差は、持たざる者がいくら努力したところで得難い部分にあることが多い。そして、持つ者はそれを「持っている」ということ、「持たざる者がいる」ということにすら、思い至らないほどに自然に、持っているものなのだということを、彼の視線を受け止めながら、ランスレットはしみじみと、考えた。


 そして、夜が始まる。

 店先の窓から見える景色は、青年の黒髪のように、色を深めていく。



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