【89滴】幼き日

 その二本の足は持てる全ての力を使い、出し得る最高の速度で走っていた。その二本の腕はより速く走る為、だが余分なエネルギーは使わず振られていた。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 その口は不足した酸素を少しでも補充しようと浅く、だが何度も呼吸を繰り返していた。全ての部位が持てる全てを出し最高速度を維持する。

 そんな全力で走る優也は角を曲がり、曲がり、最終的には狭い路地に入りできる限り息を抑え静かに歩いた。そして数歩進むと身をかがめながら入って来た方を振り返る。少しして路地の前を様々な形をしたバケモノが通り過ぎて行った。

 優也はそれを見届けると路地を抜け、傍の壁に凭れながら座り込み、立てた両膝の上に腕を乗せては俯むいた。まだ荒れた息をゆっくりと整えながら体内に酸素を供給していく。そして息が整うと改めて安堵の溜息をひとつ。


「なんとなくこの世界が分かってきた気がする。どこも知ってる場所だし、あのバケモノみたいなのも僕が怖って感じたことのあるモノばかりだし」


 優也は情報を整理するように呟いた。


「ここは僕で出来た世界。まぁでも僕のなかなんだし当たり前か」


 そう呟くと優也はまだ休んでいたい体を無視し休憩を終え立ち上がった。


「アレクシスさんの言っていた『初めて会った場所』ってところを早く探さないと」


 優也は人間だった頃に勤めていた会社のあるビル群を陰に隠れつつ慎重に進んでいた。勘を頼りに進んでいると、また不自然にビル群は終わりそこには別の建物。


白夕はくゆう幼稚園」


 それは優也が通っていた幼稚園であり、真守・愛笑と初めて出会った想い出の場所でもあった。幼稚園の遥か上空には燦々さんさんと照る太陽。あまり大きくはない園舎だが、園庭は少し広めでジャングルジムや滑り台・砂場・ブランコなどの遊具が設置されていた。優也は懐かしの園庭を見回しながらブランコに近づいていく。


「たしかここで初めて真守に話しかけられたんだっけ」


―――――――――――白夕幼稚園 六条優也 当時三歳――――――――――


 優也がブランコに乗り遊んでいると隣のブランコに真守がやってきた。


「なぁなぁ! どこまで飛べるか競争しようぜ!」

「え? でもそんなの危ないよ」

「なにビビってるんだよ。じゃあお前からな」


 そう言うと真守は軽くブランコを漕ぎ始めた。半ば無理やりに開始されたゲーム。優也は仕方なくブランコに立って乗り勢いをつける。そしてある程度勢いがのってきていざ飛ぼうかというその時、優也は怖くなってしまい漕ぐのを止めてしまった。


「おーい! どうしたんだよ?い い感じだったのに」

「ごめん……。怖くて。やっぱり僕には無理だよ」


 情けなさと少しの罪悪感から優也は暗い顔を俯かせた。


「大丈夫。怖いのは俺も同じだ」

「え?」

「だけど、それ以上に楽しんだぜ。これ」


 言葉通りに楽しそうな笑みを浮かべていた真守は隣でブランコに立つとゆっくり漕ぎ始める。


「怖いって強そうだしお化けみたいにおっかない。そんで耳元でささやくんだ。『逃げろ』ってな」


 動きに合わせブランコは徐々に速さを増していく。


「だけどほんのちょっと、たった一歩の勇気を振り絞って進んでみたらあんがい簡単に進めたりするし思ってたより頑張れるんだぜ。それに……」


 そして十分な速さになると真守は何の躊躇いもなく跳んだ。まるで背中に翼が生え大空に羽搏くように飛んだ。優也にとって寸前で自分が怖いと思い止めたことをいとも簡単に、それも楽しそうにやってのける真守は輝いて見えていた。

 だが当然翼など生えてない真守は物理の法則という園児には難しいものに地上へ誘導され着地。同時に前へ一回転し立ち上がると優也の方を向いた。


「それに『怖い』の先にはキラッキラしたモノがたっくさんあるんだぜ!」


 決め台詞のように親指を立てた腕を前に突き出した。


「ばい、ねーちゃん!!」


 姉から聞いたであろうその言葉の意味はあまり理解できていなかったが、今の真守はヒーローのようにカッコよくキラッキラして見えていた。それは彼が実行して言葉より行動で見せたからなのかもしれない。

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