【85滴】恐怖心
優也は花の香りに誘わる蝶のように目の前の母校へと足を踏み入れた。自分を誘っているのは懐古的な感情か青春の香りなのかよく分からないまま校舎に入っていく。そして三年間の間に何度も上がった階段を上がり三階へ。
「懐かしい」
端から三番目の教室。そこが最後の一年間を過ごした教室であり、中はその頃と全く変わらなかった。扉には鍵がかかっておらず優也は中へ。そして自分の座っていたベランダ側の一番後ろの角の席へと向かう。席を引いて座り、目を閉じれば鮮明に授業風景が瞼の裏で上映された。
「前の席があいで隣がまもる。まもるはしょっちゅう寝ててよく怒られてたな」
すると想い出に浸る穏やかな雰囲気の中、突然廊下側の窓がホラー映画のように激しく叩かれた。
反射的に目を開け廊下側を見遣る。だが窓は何食わぬ顔で静かに枠に填まっていた。
「気の……せい?」
そう呟くと顔を正面の黒板へと戻し想い出の続きを……。
だが黒板の前には先程まで居なかったはずの人影があった。それはビルの屋上に居たバケモノと似たような人型だったが、眼鏡を掛けスーツを着ているがネクタイはしてないと特徴的で少し異なっていた。
そんな人影へ警戒の目を向けていた優也が瞬きをひとつ。するとその人影は一瞬のうちに机の前へと移動してきた。黒板への視線を遮るように優也の座る机の目の前にただただ立っているだけ。
だがその時、ゾンビのように両手を上げたそれは間の机などお構いなしに優也へ掴みかかろうとした。しかし反射的に椅子から床に飛び込み躱したことでバケモノは机や椅子を薙倒しながら倒れた。
その光景を片膝を着いて見ていた優也の脳裏にはちょうど青春時代と共に思い出していたある人物が浮かんできていた。その人影の特徴が記憶の中の人物とよく似ていたのだ。
「林川先生?」
しかし突如、別方向から何者かに襲われた為その疑問を解決する暇はなかった。
そのまま押し倒された優也に馬乗りになっていたのは首輪を付けた犬型のバケモノ。犬型はヨダレの垂れる口で噛みつこうとするが喉に突っかかる優也の右腕に邪魔され牙は顔先の空気を何度も噛む。それでも激しく噛みつこうとする犬型に防戦一方だったが、左手でお腹を掴み投げ飛ばしたことで状況は変わった。
これで一息、かと思ったがそれを見計らったかのように顔目掛け振り下ろされた鎌。しかしこれにも反応して見せ、すぐさま横に転がったおかげでおでこに第三の目のような穴を開けずに済んだ優也。
そして起き上がった優也は刃物の主に目を向けた。そこに立っていたのは馴染みあるカマキリだったが手の平に乗るサイズではなく優也と同等の人間大カマキリ。更にこれもカマキリは形だけであり他と変わらず真っ黒な姿。
この時の優也はまだこの三体のバケモノと自分との間に関係性があるということに気が付いていなかった。というより考える余裕がなかった。
【人型。彼は、優也の通っていた高校の数学教師。校則に厳しくいつも生徒を怒鳴っていた。優也は直接的に怒られたことは無かったものの、真守はよく隣で怒声の餌食になっていた。その怒鳴り声から優也はこの教師に対して少し苦手意識と恐怖心を抱いていた】
片膝を着き出方を伺う優也に集まる三つの視線。立ち上がった人型。机の上で牙を剥き唸る犬型。床に刺さった鎌を抜くカマキリ型。皆、誰かが動き出すのを待っておりそれは気が休まらない沈黙。
そんな沈黙をいち早く破ったのは優也に向かって素直に走り出した人型と机をテンポよく渡る犬型。それを目視した優也は素早く立ち上がり近くにあった椅子を蹴り人型にぶつけようとする。だがその接触を見届けることはなくすぐさま犬型の方へと視線を向けた。
【犬型。この犬は小学校への通学路途中にある家で飼われていた。何故か優也が家の前を通るたびに激しく吠え、門扉に何度も体当たりをしていたが門扉があったため幼い優也もそこまで恐怖心を抱いてはいなかった。だがある日、少し甘くかかったロックが体当たりの衝撃で外れ勢いよく飛び出してきたのだ。反射的に逃げた優也だが犬はその脚力ですぐさま真後ろへと迫る。そして捕まりそうになったその時、たまたま通りかかった高校生に助けられ幸いにもケガ無く済んだ。この経験は心に恐怖を植え付けたのだが、根っからの動物好きである優也の恐怖心の対象はその犬だけで他の犬は相変わらず好きなままだった】
犬型は近くの机まで接近しており今にも飛び掛かろうとしている。そしてサメの如く口を大きく開けて飛び掛かってきた犬型を身を反らし躱すと、顔先を通り過ぎていく犬型の首輪に指を引っ掛けしゃがみながら床に叩きつけた。と同時進行でカマキリの行動を横目で確認していた優也の計算通り。しゃがんだ直後に頭上を鎌が通過する。
だが間を空けない更なる攻撃に背後から襲われた。何とか振り返り鎌を真剣白刃取りのように受け止めるが鎌先が胸に少し刺りながら飛ばされてしまう。優也はそのまま窓を割り廊下に出ると窓下の壁に叩きつけられ座り込んだ。辺りには彼にも降りかかったガラスの破片が散らばっている。
【カマキリ型。幼稚園生の頃、真守にされたカマキリにまつわる怖い話。この話のせいでその日の夜に怖い夢を見てしまう。それから一ヶ月程の間、カマキリはその夢を思い出す起爆剤となった。と同時にカマキリに対して恐怖心を抱いた期間でもあった】
一方、中では人型と犬型がもう起き上がっていた。それを見ながらこの状況をどうするか考えていた優也だが右側で物音が聞こえその方向を見遣る。聞き間違えなどではなくそこに現れていたのは蜘蛛型。人間大のそれは蜘蛛嫌いの優也にとっては身の毛もよだつ悪夢のような存在だった。その姿に思わず顔が引き攣る。
「それは勘弁してよ」
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