【69滴】九十九の赤いバラをあなたへ
森川の後に続き家へと上がった優也とノア。彼の家は家具や物が少なくスッキリとしていた。
「そこに座ってくれたまえ」
二人は森川の指が差した大窓近くのテーブルへ腰を下ろした。窓からは手入れされた花壇と家庭菜園がある庭が見える。そんな窓外を眺め待っていると少ししてから服を着替えた森川がお茶と和菓子を持って戻ってきた。
「すまないね。普段客人などは来ないものだからこんなのしかないんだ」
「ありがとうございます」
お礼を言う優也の隣ではノアが早速和菓子に手を伸ばす。手に取ったのは饅頭。
「うん~まぁ~」
小さな饅頭を一口で食べるとお淑やかな甘みに自然と浮かぶ。そんな笑みと共に零れた一言はそのまま満足に溶けてしまいそうだった。
そしてその言葉を皮切りにどんどんとお菓子の封を切っていくノアは子どものように夢中。
「沢山あるからどんどん食べていいよ」
まるで孫を見るような表情を浮かべていた森川は、そう言って和菓子の入った器をノアの方へと近づけた。そしてそのまま視線をゆっくりと優也へ移動させる。
「さて、吸血鬼についてだったかな?」
「はい。何でもいいので教えてもらえませんか?」
「吸血鬼か」
ふむ、と森川は考える素振りのままお茶を一口。
「……実を言うと私も吸血鬼についてはよく知らないんだ。何故この国に来たのか。私達の知っている吸血鬼との相違点はなんなのか。まだ分からないことだらけなんだよ」
「そうですか……」
その答えに表情と声へ無意識に交り込む落胆。何か分かるかと思っていたがそう甘くない現実に優也は肩を落とした。
だが折角来たのだからと気になっていたことを質問することにした。
「森川さんはどうしてこの研究を?」
「私は元々は動物を専門にしてたんだ。ユーマや妖怪の研究に誘われたこともあったが、私は存在否定派だったのもあって興味が無かったんだよ。だけど、若い頃見てしまったんだ。本物をね……」
* * * * *
<日本のとある森>
森川茂正。当時三十二歳は邪魔な茂みを掻き分けながら森の中を歩いていた。
「ここは本当に日本なのか?」
希少な動物を求め森を歩く森川だったが、いつしか自分がどこにいるのかは疎か方角すらも分からなくなってしまっていた。
「方位磁石を落としてしまうとは……。やってしまった」
それに加え普段から連絡を取れる機器を持たない主義の森川に助けを呼ぶ手段は無い。仕方なく己の勘に従い歩き続ける。
すると奇妙な事に、どこからか微かに人間の赤ん坊らしき泣き声が聞こえてきた。最初は気の所為かと思ったが立ち止まり耳を澄ましてみれば――それは確かに聞こえる。
だが不思議と恐怖は無かった。それは森川茂正という男が見たモノしか信じず、まだ幽霊や妖怪の類を信じていなかったからだろう。むしろ存在するのならこの目で確かめてみたいとすら思っていた。
そんな彼の足はその泣き声の聞こえる方向へ向かい始める。それに伴い徐々に大きくなっていく泣き声。
「まさかとは思うが……」
いつの間にか森川は泣き声の正体に興味が沸いていた。
「人間の子ならそれはそれで事件だが、そうでないのなら……」
自分の知らない生物と出会えるかもしれないと考え思わず笑みが浮かぶ。
だがそんな彼をこれ以上進ませまいとしているかのように行く手を阻む草木はどんどんその量を増していく。視界は酷いものだったがより大きく鮮明になっていく声で近くまで来ていることは分かっていた。
そして眼前を遮る茂みを掻き分け視界が一気に開けたその時。目の前に広がった光景に森川は思わず息を呑む。
そこには元気よく泣き叫ぶ赤ん坊を高々と抱き上げる女性の姿が。両肩が見えるように着た着物の裾からは、金色の尻尾が九尾、顔を覗かせている。
森川は女性を一目見た瞬間――人ではないことを悟った。と同時にそのあまりの美しさに、魅了されたかと思てしまうほど目と心を奪われていた。
* * * * *
「あの日の光景は今でも鮮明に覚えているよ。響き渡る元気な赤ん坊の声。彼女の美しさ。優しく微笑む横顔」
懐古の情に染まりながら語る森川は瞼の裏側に映し出された光景を見ていた。
そして想い出から戻って来た森川は緩慢と瞼を上げる。
「あれ以来、今まで存在を否定していた者達がいることを知り興味が沸いて専門を変えたんだ」
そう言うと老眼を外して大窓へと顔を向け、庭の向こう側で輝く海を瞳へと収めた。
「と、思っていたが、私はただもう一度彼女に会いたいだけなのかもしれない」
想い出の最中、少し感傷的になっていた森川はゆっくりと優也達の方に視線を戻した。
「すまない。こんな年になってまで執着し続けているとは見苦しいな」
取り繕うような苦笑いを浮かべ湯呑を手に取る森川だったが、その正面で優也はむしろ羨むような微笑みを浮かべていた。
「いえ、そんなことありませんよ」
「思ったんだけどよ。その専門家っつーのは他にもいるんだろ? なんでお前だけ口止めされんだ?」
すると全ての和菓子を食べ終えお茶で口をスッキリさせたノアがそんな疑問を投げかけた。
「もっともな質問だ」
ノアの質問に答える前に森川は再び老眼を掛けた。
「それは数居る専門家の中でも私だけが御伽という存在を信じているのではなく、知っているからだと私は思っている」
「実際に会ったことがあるのは森川さんだけってことですよね」
「あぁ。あれ以来も何度か会ったことがあってね。というより見たことがあるといった方が正しいかな」
そして森川はお茶をひと口飲んだ。
「そういえばあの時ある物を拾ったんだ。少し待っててくれ」
その拾ったという物を取りに森川は立ち上がると奥へと消えた。そしてすぐに戻ってきた彼の手が持っていたのは小さな長方形型の箱。
「これだよ」
テーブルに置いた箱を開けると中には布で守られた簪が入っていた。
「この結び簪を拾ったんだ。多分彼女の挿していた物だろう」
それは赤と黒のシンプルだが綺麗な結び簪。
「綺麗ですね」
「もしまた会うことが出来たら返そうと思ってずっと持っているんだ」
すると突然、部屋中に目覚ましのようなアラームが鳴り響いた。
「おっと、すまない。薬の時間だ」
アラームに呼ばれた森川はテーブルから離れると近くの小さな収納棚まで足を進めた。そして棚上に置いてあった薬整理箱から錠剤の薬をいくつか取り出すとキッチンへ。戻ってきた森川はノアが食べた分の和菓子を追加で持ってきた。
「どこか悪いんですか?」
「この年になると色々とガタがきてしまうんだよ」
「いつまでも元気でいてくださいね」
「いつまでもっていうのは無理だが、私も死ぬ前にもう一度彼女に会いたいからね。出来る限り長生きするつもりだよ」
その微笑みが活力に満ちていたのは間違いない。
「しかし折角ここまで来てもらったのに、何の役に立てずに申し訳なかったね」
「いえ、そんなことはないですよ。お話が聞けただけで十分です」
「私もルグーグの様になんでも知ってれば良かったんだが」
「ルグーグ?」
冗談交じりといった様子だったが、優也はその聞きなれない名前に小首を傾げた。
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