【36滴】あなたの隣で見ていた景色

 そんな舞台上の優也へ向けられた拍手は客の居なくなった店中に広がっていく。自分でも満足のいった演奏へ贈られた賞賛の拍手を浴びる事が気持ち良くないはずが無かった。


「そうだ。シュウ。アンタって一通りの楽器は弾けたわよね?」


 その声に優也の演奏が終わり掃除を再開していたシュウは手を止めた。


「まぁ、はい」

「少年と一緒に演奏してちょうだい。――これはオーナー命令よ」


 マーリンは面倒くさがって断れないようにか最後にそう付け足した。


「はぁ……分かりました」


 そして観念した様子のシュウは掃除道具を近くに置くと裏へ。少しして戻って来ると手にはヴァイオリンが握られていた。

 それから舞台に上がったシュウは優也と相談した後、ピアノの前へ。ヴァイオリンを構えると後ろを向いて目を合わせ開始のタイミングを取る。無言の掛け声の後、演奏は優也から始まった。

 それはピアノとヴァイオリンの息の合った優美で聴く者を虜にしてしまいそうな演奏。二つの音の味わいが繰り広げる妙味を肴に三人は思わず何度もお酒を口へと運ぶ。だが会話はおろか物音ひとつ立てず、演奏を邪魔する雑味は何一つない。それ程までに静まり返った店内を遊泳する音符の群れ。三人はこの時間だけは一人で演奏を楽しんでいた。ただお酒を口にし、演奏に心を委ね、奏者の動きを見つめる。ただそれだけ。

 ずっと聞いていたい。しかし誰もがそう思えるほどの演奏だったが、それもついには最後の音で終りを告げる。

 そして演奏を終えた優也とシュウには三人から惜しみない拍手が送られ、舞台上の二人は握手で互いを称えた。演奏を終えたシュウは舞台を降りるとヴァイオリンを片付けに戻り、優也は観客席へ。


「出来るじゃない」

「カッコ良かったわよ」

「最高だったぜ」


 マーリン、ジェイク、桜は優也を囲い感情を乗せた言葉で称賛した。


「ありがとうございます」


 面映ゆさに少しむず痒さを感じながらも自分自身で良い演奏だったと思っていた優也は、それらの褒め言葉を素直に受け取れた。

 そしてヴァイオリンを片付け戻ったシュウは掃除を再開し、それを見た桜は貰ったプレゼントを裏まで運び始めた。


「あなたもそろそろ帰らないと奥さんに怒られるわよ」

「そうですね。そんじゃ帰ってマッサージでもしてあげようと思います」


 そう言ってシュウと桜に一声かけたジャックは店を出て行った。


「アタシ達もそろそろ帰りましょ」

「そうですね」

「シュウ! 桜! アタシ達もそろそろ帰るわ」


 声を聞き手を止めた二人はマーリンの元へ。


「またしばらく来れないの?」

「どうでしょうね。そんなことより、あなたはちゃんと夢に向かって頑張るのよ」

「分かってる」


 そう言って寂しげに笑みを浮かべた桜をマーリンは優しく抱き寄せた。


「あなたならきっと出来る」


 マーリンは抱き締めた桜を愛撫しながら囁いた。少しの間、抱き締めてもらった桜だったが離れる時はまだ名残惜しそうだった。

 それからマーリンは視線を桜からシュウの方へ。


「あなたも来る?」


 そう尋ねながらマーリンは両手を広げて見せる。


「大丈夫です」

「そう言うと思ったわ。――はい、これはあとで開けてね」


 するとマーリンは封筒をひとつ彼に手渡した。


「あなたなら上手くやれるわ。いらなくなったらいつでも捨てていいわよ」


 何も言わないシュウの真っすぐな双眸を見つめた後、マーリンは振り返った。


「さて、行きましょうか」

「はい」

「待って下さい」


 すると呼び止めた後にシュウはその場を離れると、少しして二人分のコートを持って戻ってきた。そしてそのコートを二人へ順に手渡す。


「おにーさん、またいつでも来てね」

「うん。また来るよ」


 手を振り見送る桜に手を振り返した優也はその後、隣のシュウへ軽く頭を下げた。

 そしてコートを羽織った優也がマーリンの為にドアを開けると冷たい風が二人の間を通り過ぎてゆく。


「帰りはどうするんですか?」

「その前に寄りたいところがあるんだけどいいかしら?」

「はい。いいですよ」


 外に出るとマーリンは掌を上に向けて差し出し、その上に優也はそっと手を乗せる。

 気が付くと辺りの景色は一変し地面は草でふかふか。丘上のようだったがまだ頂上ではないらしい。少し戸惑う優也の隣でマーリンはヒールを脱ぎ裸足になった。


「この上よ」


 そう言うとヒールを片手にぶら下げ先に歩き出したマーリン。少し遅れて優也もその後を追う。

 頂上まで上るとそこには地上と夜空に綺麗な星々が煌々と輝く景色が広がっていた。その美景に優也は思わず立ち尽くしてしまう。


「綺麗でしょ?」

「はい。とっても」


 返事を聞きながらマーリンは腰を下ろした。

 そして隣に座った優也はコートを脱ぐとマーリンの肌を晒した脚を覆った。


「冷えますよ」

「ありがと」


 一言お礼を言いマーリンはポーチの中を探り始めた。


「吸っていいかしら?」


 そしてポーチの中から取り出した『Yc』と書かれたタバコの箱を優也に少し振って見せる。


「どうぞ」


 返事を聞いてから一本取り出し口に咥え、オイルライターで火を点けた。


「吸うんですね」

「ここに来た時だけはね。幻滅しちゃった?」

「そんなことはないですよ。僕結構、人のタバコ吸う姿って結構好きなんですよね。それにマーリンさんは格好良くて似合ってます」

「――ありがと」


 その言葉より一歩先に夜空へひっそりと広がる白い煙。


「ここ、良い場所ですね。静かで風が気持ちよくて。何よりこの心洗われる景色が何とも言えません」


 マーリンはコートの掛かった脚を山型に曲げると、その脚を抱きかかえるようにし腕の上に顔を乗せた。


「アタシのお気に入りの場所よ。昔からここにいる間は心が楽になる気がするの」


 優也にそう言うマーリンの横顔はどこか物悲しく、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。

 それからしばらくは止まったようにも感じる緩やかな時間が二人を包み込み続けた。その間、丘上からの景色を眺めながら二人は色々なことを考えていたが、それを口にする事は無く誰も知る事は叶わない。


「はっくしゅ!」


 するとそんな雰囲気を切り裂くように優也がくしゃみをひとつ。それに反応してマーリンが優也の方を見遣る。


「そろそろ帰りましょうか」


 そして脚にかけられたコートを鼻を啜る優也に返した。


「ありがと。でも少年が結構冷えちゃったわね」


 ゆっくりと立ち上がる二人。


「帰ったらお風呂にでも入って温まらないとね」

「そうですね」


 するとマーリンは突然、優也の肩に手を回した。


「そーだ。コートのお礼におねーさんが背中を流してあげよう」

「え!? 一緒に入るんですか?」

「その方がどっちかが待たなくてもいいでしょ?」

「そうですけど……」

「いい加減慣れなさいよ」

「慣れなさいってい――はっくしょん!」

「ほらぁ~……」


 そんなやり取りをしながら帰る二人を夜空に浮かぶ三日月は静かに見送った。

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