十三
その日、朝ご飯の支度をしに台所へ向かうと、婆様の姿が見当たらなかった。
少し不思議に思っていると、婆様は現れた。
「婆様、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
優しく挨拶を返してくれたが、心なしかいつもの元気が無いように思える。
顔色も少し悪い。
その日から婆様は寝込む事が多くなっていった。、
もう80を超えていると笑う婆様は、この世界では長寿の方だと言う。
それから10日後。今日も寝込んでいる婆様に、少しでも元気が出るようにと庭の花を幾つか見繕って部屋を訪れた。
眠っているようだったので、音を立てないように花瓶に花を生けていると、急に婆様が声をかけてきた。
「ごめんなさい。起こした?」
「ミズキ…こっちへ」
枕元に移動すると、気遣う私を制して婆様は半身を起こした。
「今日は調子が良い。…ミズキ、最近何かに悩んでいたみたいだけど?」
突然の話題に私は思わず顔を赤くして俯いた。
(…恋の悩みなんて、言えないよ)
私が口ごもっていると、婆様はいつもの様にカッカッカッと笑う。
婆様は占者だ。私の悩みなんてお見通しなのかもしれないと思ったら、余計に恥ずかしくなった。
「ミズキ、気持ちを押し込めるのはお辞め。お前の悪い癖だよ」
婆様の優しい瞳に、少しだけ聞いてみる事にした。
「…あのさ…導きが…人を好きになっちゃ…いけないよね?」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって…俺には責任が…国を導くっていう。…まだ何をしたら良いかは、解らないけど…」
すると、婆様は急に真剣な表情に変わる。
「ミズキ、お前は導きだよ」
その言葉に心臓を鷲掴みされたような痛みが襲った。
「…よくお聞き。運命はいつも過酷だよ。導きとしての力はお前に望まない出来事をもたらすだろう。…ただ、いいかいミズキ。お前がその場で何を選択しても、それは間違いじゃないよ」
今度は柔らかな笑みを湛えている。
「変に使命とか責任を負うのはお辞め。お前はお前の思うままに生きればいい。解ったね」
婆様は懐から何かを取り出して私の手に持たせた。
痩せた手から受け取った物を見てみると、薄紫に輝く小さな石に紐を通してあった。
婆様を見る。
「持っていなさい。しっかりと念を込めたからね。何時でもお前を見守っているよ」
穏やかな顔のまま旅立ったのは、その2日後だった。
アツキの横に建てられた小さな墓標に花を添える私の背に、タケヤが声をかけた。
「…婆様はなぁ、ある日ひょっこり俺達の前に現れたんだ。俺達は傭兵だ。戦場を渡り歩く生活に、耐えられるわけがねぇって初めは思ってた。それでも着いて来た。俺達となら、願いが叶うだろうって笑ってな。……婆様の願いは、叶ったのかな…」
タケヤはズッと鼻を啜った。振り返らずに私は涙を拭いながら、首からかけた婆様の遺品を握り締めた。
働き者で茶目っ気があって、右も左も解らない私にいろいろと教えてくれた。
何を言わずとも、私を1番に理解してくれたのは婆様だった。
本当の祖母を亡くしたかのような喪失感を埋めるのは難しかった。
それから8日程経ったある日の事。
すっかり風が冷たくなり、かじかむ手を息で温めながら買い出しから帰ると、門の前に女の子が立っていた。
その顔は見知っていた。以前、街中で突然声をかけられ、手紙を渡してきた彼女だった。
私は字が読めなかったので、その時一緒に居たハルマに代読を頼むとそれはラブレターで、散々にからかわれたのを思い出す。
(あ、返事を待ってるのか)
今はそんな気分ではなかったが、何も知らずに顔を赤らめている彼女を見ていると、邪険にすることも出来なかった。
「手紙、ありがとう。…でも、ごめんなさい」
此処に来てから何回目かの謝罪を口にする。
(私の女子力はいづこ…)
「…あ、あの…。今は好きでなくても良いんです。その…試しにお付き合いとか…駄目ですか?」
今迄の子と違い、食い下がる彼女に自然と口が動いた。
「…好きな人が居るから…ごめん」
そう聞くと、彼女は瞳を潤ませて帰って行った。
夕暮れに大きく溜息を吐くと、突然後方から声がかかった。
「それ、本当?」
思わずビクリとして振り向くと、門に寄りかかったクタニだった。
「クタニ!…いつから居たの?」
「手紙をありがとう、位からかな?」
(全部じゃん!)
「ねぇ、さっきの、本当なの?」
「?」
「好きな人ってさ」
一気に顔に熱が集まった。そんな私を見てクタニが妖しい笑みを浮かべる。
「誰?」
「だ、誰でもない…嘘だよ」
言いごもる私の様子を可笑しそうに笑うと、不意に顔を近づけて来た。
「俺には居るよ。好きな人」
あまりに耳元近くで囁くものだから、思わず耳を押さえて後ずさってしまった。
「へ、へぇ〜。そう、なんだ……。あ、俺夕飯の支度があるから」
半ば逃げるようにその場を去った私の背後でクタニが呟く。
「…そろそろ、我慢も限界かな…」
その小さな声が私に届くことはなかった。
そして、ある日の昼下がり。廊下を拭いているとクタニが近づいて来た。
「ミズキ、今晩出掛けようよ」
また呑みの誘いだろうか?
「いいけど、何処行くの?」
「お祭りがあるんだってさ」
(この寒い中?こっちの世界では冬にお祭りするのかな)
しかし、好奇心には逆らえずにその誘いに乗ることにした。
いつもの様に数人で出掛けるのかと思われたが、門で待っていたのはクタニ1人。
私は特に深く考えもせずに、そのまま2人で街に繰り出した。
日本のお祭りと同じで、出店が軒を連ねている。
その1つに目が止まる。飴細工の店だった。
「…綺麗…」
「どれがいい?」
「?」
「買ってあげるよ。ほら、どれにする?」
優しい笑顔に断ることも憚られ、私は甘える事にした。
動物をも象った物だったり架空の生き物だったり、様々なデザインの飴細工の中から選んだのは、花をあしらった小さな物にした。
「随分と可愛いのを選んだね」
クスクス笑いながらも私の手に持たせてくれる。それを街の灯りに透かせば、キラキラと輝いている。
食べてしまうのが勿体無い位だ。
「クタニ、ありがとう」
「やっと笑顔が戻った」
「?」
「…婆様の事、辛かったね…」
そう言って優しく頭を撫でてくれた。
気落ちした私を元気づけようとしてくれた事に気づく。
お祭りに誘ってくれたのも、きっとそういう事だったのだろう。
婆様の事は確かに辛かった。でも、皆の方がずっと長く婆様と居て、沢山の思い出がある。
クタニだって辛いはずなのに私を気遣ってくれた事に、申し訳なさが込み上げてきた。
「…ごめんなさい…クタニも悲しいのに…」
私の言葉に困った様に笑うクタニを見て、心配させてはいけないと思った私は、精一杯の笑顔を向けた。
「クタニ、今日はありがとう。俺、婆様の分まで頑張るから!」
クタニを見ると、更に困った様な顔をしていた。何か的外れだったのだろうか。
小首を傾げた私を、突然クタニが引っ張る。
細い路地裏に移動すると、壁を背にした私の顔の横にクタニが両手を置く。
(え?…これって…壁ドン?)
「全く…こっちは下心満載だってのに…あんな笑顔を俺に見せてさ…」
「…クタニ?」
次の瞬間、唇にフワリとした感触が伝う。クタニの顔面が目の前に見えた。
(……キス…されてる)
突然過ぎて動く事が出来なかった。合わされた唇にがゆっくりと離される。
「…どう、して…」
「どうしてって…口づけする理由なんて、好きって事以外ある?」
(…好き?…好きって言った?…私を?)
上手く思考回路が纏まらない。
「ミズキがあんまりいじらしいから、順番間違えちゃった。……好きだよ、ミズキ」
改めて告白したクタニの笑顔はいつもの優しいだけのものじゃなく、妖しく瞳が揺らめいている。
不意にキリトの顔が浮かんだ。
「…お、俺…」
「知ってる。想う相手が居るんだろ?」
「!!」
「ずっと見てたからね。それぐらいは解るよ」
恥ずかしくなって視線を反らす。
「俺にしときなよ」
「…俺は…導きだよ…」
「何それ?導きは恋もしちゃいけないわけ?…俺は、お前が何であっても関係ないね。ミズキを守りたいってだけだよ」
どう返したらいいか解らなかった。
クタニは優しい。けど、異性として意識した事が無かった。
困っている私を見て、クタニは不意に身体を離した。
「…今日はこの辺で勘弁してあげる」
ホッとした次の瞬間。クタニは振り向きざまに言った。
「でも、俺は諦めないから」
祭りの喧騒の中宿所まで共に歩いたけど、私達が言葉を交わすことは無かった。
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