十二
その日、掃除を終えて廊下で人心地ついた時だった。
突然キリトが声をかけてくる。
「前々から思ってたがな、お前に護身術を教えてやる」
「?」
「…団長の一件があっただろう。お前は人目を引きすぎる。これから戦場に出る機会もあるかも知れないし、身につけておいて損はない。行くぞ」
そう言って、戸惑う私を屋内の鍛錬場に引き摺って行った。
「いいか、まずは前から来る相手には、身体をずらして腕を受け流して逃げる」
キリトは動きを交えて教えてくれた。
「やってみろ」
見様見真似でやってみる。
「よし、実際に俺が向かって行くから、今と同じ様にするんだ」
ゆっくりとした動きでキリトが向かってきたので、同じ様にやってみた。
何度か繰り返して少しづつコツを掴む。
運動神経は悪くない方だと思う。次々に身のかわし方を教えてもらい、段々と楽しくなってきた頃。
「いいぞ。じゃあ、次は後ろから襲われた場合だ」
するとキリトは私の後ろに回って抱きついて来た。
突然の事に驚いたのもあったが、鍛え上げられた大きな体躯が背中に感じられて心臓が跳ね上がる。
「逃げてみろ」
耳元に、少し鼻にかかった低音ボイスが響くと、一気に顔面が紅潮した。
(ち、近い…)
「どうした。敵は前から来るとは限らねぇぞ」
更に響く声に身震いが襲った。私は無我夢中でもがくが、その腕を振りほどく事が出来ない。
もう一度やってみる。と、瞬間顔を上げたせいで、後頭部がキリトの鼻にぶつかった。
「グッ!」
一瞬蹌踉めくキリトと暴れる私は、バランスを崩して勢い良く倒れ込んでしまう。
背中に痛みを感じながらゆっくりと目を開けると、鼻が着きそうな距離にキリトの顔があった。
押し倒されたような大勢で身体が密着している。
あまりの至近距離に動くことが出来ずにいたが、キリトも固まったままだ。
その瞳に吸い込まれそうで、鼓動だけが煩くなる。
「…あ、あの…キリト…」
私の声で、キリトはハッとして跳ね起きた。
「い…今のも悪くない」
「へ?」
「頭突きとは…お前もやるな…」
そう言って背を向ける。
「よし…今日の所は此処までだ」
スタスタと鍛錬場を出て行ってしまった。私はまだ跳ねたままの鼓動を整える事が出来ずに、暫くその場から動く事が出来なかった。
その2日後、私は2人の隊員を連れて食材の買い出しに出た時だった。
人混みの中、見慣れた長身の背中を見つける。
(キリトだ…)
2日前の出来事を思い出して、急に動悸が激しくなる。しかし、直ぐに心に冷たい風が差し込んだ。
女の人と歩いていたのだ。隊員の1人がそれに気づく。
「あ、キリトさんだ」
もう1人もそれを見やってボソリと呟いた。
「まぁた女と歩いてる」
「え?」
心を掻き乱された。「モテますからねぇ」と付け足した笑顔の隊員。
人混みの中、腕を組んで歩く2人。キリトの横顔は穏やかに微笑んでいた。
(…あんな顔も…するんた…)
ズキリと胸が傷んだ。鮮やかな服と綺麗な髪を束ねた彼女も妖艶に微笑んでいる。
酷く羨ましかった。
「…いいなぁ…」
我知らず呟いた私に、隊員達が同時に振り向いた。
『え?』
その視線に、初めて声に出していたと気づいた。
「またまた〜!ミズキさんだってモテるくせに!」
背中をバンと叩かれてむせている間に、キリト達は街中に消えていった。
(…彼女なのかな……私もお化粧したり服や髪をオシャレにして…好きな人と……!)
好きな人という思考に自分でびっくりした。キリトの顔が浮かんだので、掻き消すようにブンブンと頭を振る私を、2人の隊員は不思議そうに見ていた。
モヤモヤした気分を抱えて宿所に帰ると、クタニとすれ違った。
よほど変な顔をしていたらしい。
「どうしたの?難しい顔しちゃって」
言われるまで気が付かなかった。
「な、何でもないよ」
言ってから殊更に笑顔を作ってみせた。
クタニは肩を竦めて何かを言いかけて辞めた。
「そう?…所で、今日の夕飯は何?俺、もう腹が減っちゃって」
無理に話題を変えたように思える。気遣われたのかもしれない。
(馬鹿みたいだ……別に、キリトの事が好きって訳じゃ………え?)
早鐘を打つ心臓。私はこの感覚を知っている。
(…もしかして…好き…に?)
「ミ〜ズ〜キ」
突然、目の前にクタニの顔が近づく。
「わぁ!クタニ!…何?」
「何じゃないよ。ミズキこそ何考え込んでたの?」
(…言えないよ…)
「悩みがあるなら聞くよ?」
クタニは優しい。けど、こんな事恥ずかしくて言えない。
私は曖昧に笑ってお礼だけ言うとその場を後にした。
その日の夜、タケヤの部屋を訪れる。
私はタケヤの世話役なので、この日も遅くまで書状と戦っていたタケヤにお茶を持ってきたのだった。
「お?ミズキ。まだ起きてたのか?」
「今日、お団子買った。甘い物、疲れ取れるから」
タケヤは歯を見せて手を休めたので、私はお茶の用意をしだした。
戸の外から声がかかり、心臓が飛び跳ねた。
「キリトか?入れよ。ミズキが団子をくれたんだ。お前も一緒に食え」
スッと入ってきたキリトを一瞬見て、直ぐに視線を反らす。
顔がまともに見られなかった。
(…好きに…なってしまった…)
「ミズキ、キリトの茶も頼む」
「う、うん」
キリトの視線を感じて手が自然に震えた。
「今帰ったのか?」
何気ないタケヤの言葉に、思わず湯呑がカシャンと音を立てた。
「ご、ごめんなさい」
そうだと答えるキリトの声で、動揺は加速していく。
(今迄、あの人と…一緒に居たの?…)
嫉妬心が渦巻いているのが解る。
漸くお茶を用意して、その場を去ろうと腰を浮かすと、タケヤが呼び止める。
「ミズキも食って行けよ」
「俺はいい…もう、寝る…」
すると、突然キリトの腕が伸びて来て私の額を触った。
「おい、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
思わず乱暴に手を振り払ってしまった。
「…………」
キリトは振り払われた自身の手を見ている。
「ごめんなさい!…でも、大丈夫だから…」
精一杯それだけを言って、逃げるように部屋を後にした。
兎に角、冷静になろうと大きく息を吐く。
布団の中でゆっくりと思考を巡らせた。
初恋という訳ではない顔が、彼氏が居たのは3年も前だ。
しかも最後までプラトニックな関係で終わっていた。
久しぶり伸びて来て感情に少し驚いてしまったというのが実際の所だった。
しかも、異世界の住人を。
その時、ハッとしてある事に思いが至る。
私は導きだった。キリト達が護ってくれるのも私が導きだからだ。
導きである限り、此処に居る限り、自分は男として過ごさなければならない。
急に寂しさが襲って胸が痛くなった。
キリトの事を好きなのだと自覚した途端に、失恋が目に見えてしまった。
しかし、導きでなければ出逢う事も無かった。
普通の女として出逢いたかったと思う反面、導きでいればキリトの傍に居ることが出来る。
心が引き裂かれそうだった。
翌朝、いつもの様に布団を片付け、さらしで胸を潰す。手早く身支度を終えてから、思いっきり両頬を叩いた。
「…痛っ……。よし!気合い入った!」
昨夜は散々泣いて少しスッキリした。
前向きに考えれば、普通の女ならば一緒に戦場に立つことも叶わないだろう。
例えどんな残酷な場でもキリトの傍に居られるなら、それは幸せな事の様に思えた。
私が彼に出来る事は、導きとして生きる事だ。
寂しくないと言えば嘘になる。それでも傍に居られるのなら、この想いは隠しておこうと決心して部屋を出るのだった。
昼下がり、庭の掃除をしていると、先日私を華屋に連れ出した隊員の1人が声をかけてきた。
「ミズキさん。この前は残念だったッスね。また今度誘いますから!」
私は曖昧に笑って返事をした。
そんな私の様子を、庭に面した廊下で眺める2人が居た。
クタニとキリトだったが、私がそれに気づく事はなかった。
[キリト目線]
「…ミズキってさ、凄いよね」
クタニは庭で掃除するミズキの姿を眺めながら、穏やかに言った。
「あ?」
「言葉も解らない世界に来て、いきなり男の格好を強要させられて…」
「おい、クタニ」
「大丈夫だよ、誰も居ないから。……重い宿命を勝手に背負わされて、血生臭い現場に行ったり、こんな男所体で女友達も作れずに…それでも笑ってるんだ」
「………」
「きっと、普通の娘だったらとっくに絶望してるんじゃない」
暗に俺を責めてるのだと解る。
「昨日だって何か悩んでたみたいだけど、今日はほら、もう笑顔だ」
「…そういや、少し変だったな…」
「誰にも相談出来なかったんだね…目が少し赤いから、きっと夜に泣いたんだよ」
クタニはなおも続ける。
「あんな華奢な身体して、懸命に生きて笑うんだ。…そんな姿見せられちゃったらさ…堪んないよね」
「クタニ…お前…」
クタニの言わんとする所が解って、心臓が早鐘を打ち始めた。
(コイツ…ミズキの事を…)
「お前、アイツは―――」
導きだと言おうとしたが、クタニがそれをさせなかった。
「キリトさん、まだ国王に差し出そうなんて事、考えてないよね?」
あくまでも口調は穏やかだ。
「今のエン国王は、粗野で好戦的だって噂だよ。…ミズキはズタズタにされるかも…」
クタニは庭に降りると、うん、と背伸びをして振り返った。
「俺、そんな事は許さないから」
日差しを受けたクタニの顔は、それでも笑っていた。
(…牽制してるつもりか…)
黙ったままクタニを見る。
「…他にも同じ想いの奴も居るみたいだし…これでも、それなりに悩んじゃったりしてんだよね」
「…他にも?」
「俺、結構皆の事見てるからさ。解っちゃうんだよ」
その視線に、心の内を見透かされるようで自然と目を反らす。
「まぁ、誰にも譲る気、ないけどね。……所でキリトさん、最近また女を変えたでしょ」
「…なんだ、突然…」
「何か最近、意地になって女と遊んでない?」
「…何が言いたい…」
「俺には、何かを誤魔化すみたいに女遊びしてるように見えたからさ」
「…思い違いだ。…トウには良い女が多くてな」
その時、庭先で小さな悲鳴が上がる。掃除の最中に虫に追われたらしい。
クタニはクスクスと笑って動き出した。
「全く…目が離せないったらないよ」
そう言い残して虫退治に赴くのだった。クタニの思わぬ告白に、内心は妙な危機感を覚えていた。それに…。
(…気持ちを誤魔化す…か…。余計な所ばっかり気づきやがって)
笑顔で会話を交わす2人に、小さな舌打ちが漏れた。
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