あんずトロワ(前篇)
4月12日の放課後——AIの芥川龍之介の名前が『超考堂』に決まったことに喜んだのは、海馬くんよりは国語教師の美月だった。先生のただならぬ喜びように渡辺結はちょっとびっくりした。
「ちょうこうどう! いい! 京極堂みたい!!」
「きょうごくどう?」
「あ、京極夏彦さんっていう人の小説に出てくるキャラクターなんだけどね、京極堂も芥川龍之介っぽいし。うん、いいよ。すごくいい!!」
2人しかいない図書室に興奮した声が響く。この図書室は去年閉鎖されたのだが、美月先生は校長に交渉し使用許可を得た。新規に創設する『文芸部』(正確には文芸同好会だが)の活動の場として自由に使ってよいのだという。
「ここにもありますかね、その人の本」
結は図書室にしてはさほど広くない、でも2人で使うにしては広すぎるその部屋を見渡した。
「あると思うけど・・・ミステリーだからね。意外と置いてないかも」
「ミステリーって何ですか?」
「うーん、難しい質問だね、それは」
深い答えが求められているわけではない。『殺人事件が起きて探偵が解決する話だよ』くらいに応えておけばよい。ただ、美月先生は慎重になってしまった。自分が変な定義をしたせいで先入観を持たれ、ミステリーの面白さを伝え損ねたり、生徒の幸せな読書体験を台無しにしてしまうかもしれないと躊躇してしまったのだ。
「読んでみればわかるよ、きっと。でも長いから時間がかかるけどね」
「長いんですか」
「レンガみたいな本だよ、一冊がこんな分厚いよ。ところでAIってなんだろうね」
文系の美月先生はこれ以上ないストレートな疑問を生徒に呈した。
英語が苦手な結はあいまいに受けて疑問で返す。
「たしか人工知能の略ですよね。何がエーで何がアイなんでしょう」
エェ、アイデアの略じゃない? というジョークを自然と思いついて美月先生はペッパーくんみたいな表情になった。
「このコンピュータの頭脳がAIなんだよね? よくTVとかニュースでAIって聞くけどすごいのかな」
2人はパソコンの本体とディスプレイを見つめる。
海馬くんが初期設定を終え、図書室に残していったコンピュータ。
海馬(かいば)——ネットで検索してみると、海馬というのは『脳の記憶を司る器官』だということを結は知った。銀髪のあのキレキレな少年にぴったり過ぎる名前だ。親がつけたのだろうか? 海馬くんのことだから自分で名乗っているだけで、本当はぜんぜんちがう名前なのかもしれない。
美月先生は、先生らしからぬ自信なさげな声で言った。
「ねぇ、結ちゃん、あの人、このパソコンをわたしたちが育てるとか言ってたよね」
水野美月先生は、これまでの4年か5年の教師生活で生徒を下の名前で呼ぶことはなかった。でもこの4月からは思い切って下の名前を呼ぶことに決めた。それが功を奏してか、今までのどの年度よりも生徒たちの自分へのリアクションが良いように感じられる。どうしてとっくにこうしなかったんだろう。
「はい。でも、育てるってどうやるんでしょうね」
「文章を読み込ませたり、話しかけたりすると学習していくらしいけど・・・でもどうなんだろう。海馬くんは超考堂に新作を書かせたいとか言ってたけど、パソコンに文章が創れるのかな」
たしか『教師あり学習』という言葉を使っていた。先生がいてこその学習? 教師ってわたしのこと?
状況がつかめていないのは結も同じだった。
「わたし海馬くんにひとまず、自分が書いた日記か小説を書いて読み込ませておいてって言われたんですけど、先生は?」
「わたしも同じ」
生徒に宿題を出される国語教師——
「先生は小説を書いたんですか? それとも日記?」
「ええと・・・」
「やっぱ日記ですよね」
いや、実はまさかの小説だった。でもそれは最近書いた小説ではなく、大学生のときに書いた青春小説だった。もちろん未完なんだけれど。
「ごめん。わたしは小説」
なんで謝っているんだろう、自分。
「しかも青春小説」
「え? 青春小説って何ですか?」
なぜか美月先生には質問しやすい。ちっとも怖くないし、出会ってまだ1週間するかしないかくらいだけど「そんなことも知らないの?」みたいな返しをしている場面を見たことがないから安心だ。
「うーん、それは難しい質問だね」
「先生! それさっきと同じリアクションです!」
「あ、ごめんね。ええと青春小説でしょ。うーん、しいて言うなら・・・登場人物の少年と少女が悩んだり成長したりする小説かな。ちょっと甘酸っぱくなるような話」
この解説であってる? ていうか青春小説というジャンルがあるかどうかさえあやしい気持ちになってきた。
「でも、すごい。先生、小説書けちゃうんですね!」
正直言ってちょっとだけ嬉しかったけれど、美月先生は謙遜した。
「すごくないよ、ぜんぜんだよ」
「タイトルはどんなですか?」
「ええっと・・・」
ここで胸を張れない時点で美月は表現者としては向いていないかもしれない。結は美月先生が手にしていたクリアファイルをのぞきこむ。見えたタイトルは
『あんず通りで偶に遭う人』
「あんずどおりで・・・なんて読むんですか?」
「あ! これは・・・ええと、『たまにあうひと』」
観念して美月先生は原稿を取り出す。
「はずかしいよう。あ、読まないで! 読まれたら死んじゃうから」
「たまに」という副詞を漢字で表記したり、「会う」ではなく「遭う」という字を選ぶ辺りがやっぱり赤面。大切なタイトル。なのに文学度を上げようとして、読者おいてけぼり。一瞬読めないことで読み手の気をひくというテクニカルな狙いがあるわけでもなかった。
読まれたら作者が死んでしまうようなデンジャラスな小説——そんなミステリー的青春小説をよく書けるものだと呆れたわけでもないだろうが、超考堂がジジジと音を立て読み込みを促す。
「先生!・・・今、この子、いいから読ませろっていう感じでしたよね?!」
「た、たしかに・・・そんな気がしたね」
2人がディスプレイを見つめているのか、ディスプレイが2人を見つめているのか曖昧になってきた。渡辺結はフォトグラファ美南のようにヴィヴィッドに提案した。
「いっちゃいますか、最初の一発目」
「ええ! いきなり?!」
「海馬くん、録画ボタンをおせば映すだけでキーボードで入力しなくてもいいとかいってましたよね。本当かな? これ?」
「ちょ、ちょっと待って結ちゃん!」
「とりあえず、やってみましょう。いきまーす」
結は原稿を手に取ると、ディスプレイの録画ボタンをタッチし、長考堂の眼のようなレンズに先生の原稿の1枚目をかざした。
「おお!」
「すごい!」
写した字がスキャンされ、デジタルに転換され、画面に文字が並べられていく。その表示スピードは前世紀のプリンターの印字のようにゆっくりだったが、原稿の内容とは寸分の狂いもない精確なものだった。
* * *
「理香が学校嫌いじゃなくて良かった」
ママが朝らしくない暗い声でつぶやいた。
1年で30日以上休む「不登校」の小中学生は、全国で12万人以上、中学生では「40人のクラスに1人」の割合でいるらしい。理香は12万人の学校に行かない子どもたちの姿をリアルに思い浮かべた。続いて心配そうな顔をしている24万人の父親と母親のことをぼんやりと思う。さっそく気持ちが塞いできた。
「理香が学校行きたくないなんて言い出したらショックだよ」
ママはテレビで流れる不登校の特集を見ながら感想を述べた。そしてお決まりの質問——
「ねぇ、理香はどう思う?」
* * *
「ちょっと待って!」
少女の手から『あんず通りで偶に遭う人』を取り返すと、美月先生は心の中で叫んだ。
あ ん ず ト ロ ワ
これはかなり——恥ずかしい。動揺のあまり、救いようのないフレンチジョークで精神的安定をなんとか保ったものの、結と超考堂の顔がまともに見られない。だいぶ前に書いた小説の冒頭を、自分の生徒&芥川龍之介に読まれるの刑。これはもう比喩ではなく死んでもおかしくない。
「これ・・・先生が書いたんですか?」
「ええと、たぶん」
「たぶん?」
感想をもらうのが、恐い。
「あ、たぶんじゃなくて、わたしなんだけど・・・先生になる前にね」
恥ずかしいし、自信はないし、読み込みを中断したくせに「結ちゃん、ここまで、この作品どう思う?」ってちょっと聞きたい。でもそんなこと怖くて聞けないと思っているところに、結が率直な感想を述べた。
「学校行かない子って12万人もいるんですか?!」
あんずトロワ(中篇)につづく
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