いろいろな事情で、父はやかんなのだ(後篇)
「何のグラフ?」
白色で軸と数値が、赤色で折れ線グラフが示されている。
「評価値です。真ん中の線より上がプラス。下がマイナス。真ん中は互角」
「ああなるほど」
知らないふりをしてるが美月は実はちょっと・・・というよりだいぶ知っていた。自らは指さないものの、NHKの番組『将棋フォーカス』を楽しく観られるくらいのライトな将棋ファンなのだ。
解析ソフトがあれば自分の対局を分析できる。1手1手に対し、AIが評価を与えてくれるのだ。人間が「善い手」と思って指したのに、AIに「悪手」と切り捨てられることがある。熱を上げている将棋ファンは、自分の対局やプロ同士の対局をソフトに打ち込み解析する。
演技が下手な美月は、ふむふむとわざとらしく頷いた後、饒舌に語った。
「よくわからないけど、この場合、先手の海馬くんが55手目でやらかしちゃったわけね。それで劣勢に評価が振れて、しばらく苦しくて耐えていたんだけど、72手目でさらに悪化。ところが完全に敗勢だったのに90手目で評価逆転ってことかな」
ドヤ顔でグラフと海馬くんを交互に見つめる文系教師。
ヴィンセントは笑って一蹴した。
「ぜんぜん違いますね」
ぜ ん ぜ ん ち が う ?
「ウソ? ぜんぜんちがうの?」
「そもそもこれ、将棋の評価値じゃないですし」
「将棋の評価値じゃない?」
「はい、4月5日木曜日。入学式の日のオレに対する評価値」
お れ に た い す る ひ ょ う か ち
「は?!」
「パドレが開発したアプリなんです。ウェアラブルでオレの五感と完全連動していて。オレ自身の15年間のライフログとパドレ自身のライフログ、それとパドレの尊敬する人たちのデータ群、および世界でユニークな活躍をしている人たちの行動データを総合した評価軸」
「なにそれ!」
ぜ ん ぜ ん わ か ら な い
「でもそれだけではぜんぜんダメで。プレイヤーはオレだからオレ自身が憧れている人や、面白いと思う人、やさしいって思う人、めっちゃフツーですごいなって人を、それこそ全部全員、精確に見つめて、オレ流にカスタマイズしなくちゃいけないんです」
「そうだね」
「ですよね。ただプラスの評価だけ作ってももちろんダメで。マイナスの精度もあげなくちゃいけないから、オレ自身、何度でも何にでもトライしてエラーしまくらなくちゃいけない。周りにいる苦しい状況の人、すごく困っている人、すごく心配している人に、できる範囲で寄り添って、いっぱい見てホンキで手を貸して」
「なるほど」
よくわからないけれど、本当によくわからないけれど
――いろいろな事情で海馬くんは海馬くんなんだ。
「そうやって毎日評価軸を整えて、過去を分析して、あとはおりゃ!って今を激しく生きるっていうか、そんな毎日です」
「すごい!」
「すごくはないけど、パドレとマドレがいなくなってから、なんかいきなりにぎやかです。だからさみしくなんてぜんぜんないです」
「良かったね」
もう、夢か現実か見分けがつかないけれど・・・そばで優しく相づちを打つしかない。
美月先生はぐるりと部屋を見渡す。
どうやって生活しているんだろう。
お金は? 食事は? 洗濯は?
きっといろいろと、努力をしているんだろう。
永遠の少女であるリトル・美月たちといっしょに、水野美月は涙をこらえる。
親と別居しながら強く生きていく、現実離れした少年。
ヴィンセント・VAN・海馬くん――
「しかもすごいのが、リアルタイムなのに待ったありなんです!」
「待ったあり?」
「この行動評価値のアプリがあると、素で生きるより少しズルができるっていうか、スマホで未来の評価値を観た後に、自分の行動を変えることができるんです。まあそれだと判断全委ねだから、自分の人生じゃないような気もするけど。オール棋神っていうか」
「どういうこと?」
「入学式の日、オレ、最初は走って学校行こうと思ったんですよ。そう思った時点でアプリ見たら、評価値が思いっきりマイナスに振れてて。それでこれは何かがやばいんだろうなと思って、バスに乗ったら評価値は互角にもどってた。それでバスの中に渡辺結がいて、あいつ、学校前なのに降りる気配ないから、オレ声をかけようとしたんです。でも新学期だから慎重に行こうと思ってアプリで確認。そしたらマイナスに振れる気配。それで声をかけるのを我慢。で、結局2人して学校前を行き過ぎちゃって、2つ先のバス停で降りて。反対車線に移って、戻りのバスに乗ろうとしたらマイナス評価。マジか、乗っちゃダメなのかよ、と思って走り出したらなぜかプラス評価」
ヴィンセント・VAN・海馬は3日前のことをすらすらと話した。
「すごい! 本当に? 信じられない」
「パドレは信じられないものの開発にしか興味がないんです」
「人間の活動を評価できるってことは、それって未来が予測できるってこと?」
「仕組みはブラックボックスで、その行動のもたらす結果なんてわからないけれど、アプリの評価値に基づいて動けば、アプリの評価はプラスには振れます」
「すごい。なんか、それって――」
うまく言葉にならない。
2人の間に沈黙が流れる。日曜日の朝に相応しくない、不思議な、実に21世紀らしい沈黙。そして海馬がユニコーンの角で突き刺すようにそれを力強く破った。
「先生、どうして今日はオレのところに来てくれたんですか?」
「え?」
「先生って、日曜日に生徒の家に行くの初めてですよね。そういうことする熱血先生ってタイプじゃなさそうですし」
それは――
「校長先生かなんかに命令されたから?」
そうだけど――
「校長先生のプラス評価を受けたかったからですか?」
なんでだろう。いや、ちがう――
美月は、現代文の先生らしく堂々と答えた。
「それは・・・六分の恐怖と四分の好奇心、かな」
「おお!」
それってめっちゃカッコイイ言葉ですね――海馬が予想外の満面の笑みでほめたので、美月は動揺かつ照れて、芥川の名前を出せなかった。まあいいや、どうせもうすぐやるし。
ちょっと先の未来を見据えてみる。1年の1学期の現国で扱う小説は『羅生門』。現国の知識が初めて役立ったよ――水野美月は先生のくせに生徒みたいなことをこっそり思った。
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