10ユーロのチョーカー(前篇)

問題児を抱える担任の気持ちなんて、高校生にはちっともわからないでしょ。めっちゃ気が重いじゃすまないよ。いちど交代してみる?


金曜なのにどよーんというつまらないジョークを不意に思いついて水野美月先生は死にたくなった。入学式に体育館にも入れてもらえず帰らされたという男子はいったいどんな子? 今日はちゃんと制服を着ているのだろうか? 美月先生は1年4組のドアをおそるおそる開ける。


「きりぃーーつ」


出席番号1番から日直を回していきましょう。前の人が休みだったら次の人がやってね――きちんと決めたことを守れる問題のない生徒が、ルールを忘れることなく号令をかけた。みんな立ち上がる。新学期らしい、緊張と喜びが混ざり合った、引き締まったよい表情。もちろん全員制服を着ている。


そして――


オレンジのジャージの彼は入学2日目にしてもう教室にいない。ホームルームでひと通りの連絡を済ませた後、水野先生はあらためて教室を見渡した。


「ヴィンセントくん? ああ、彼なら銀色の髪をしているからすぐわかりますよ」――おそらく今ごろ校長先生も、金曜なのにどよーん状態だろう。


いない。見る限り、銀髪はいない。

まだ名前と顔が一致しない生徒たちに念のためたずねる。


「ヴィンセント・ファン・海馬くんって子は・・・来てる?」

「はい」


中なんとかくんが答える。水野先生は人の顔と名前を一致させるのがすごく苦手だ。


「え? 来てるの? どの子?」

「あ、学校には来てるけど・・・ここにはいません」

「ここにはいない?」


嵐の予感――窓の外では、せっかくの柔らかい日差しを台無しにするかのような強い春風が吹いている。一歩間違うとほこりっぽい雨が強く降ってきそうな、そんな気配だ。

中学よりも積極的になろうと心がけている結が、ぼんやりしている水野美月先生に説明を始めた。


「海馬くん、家庭科室へ行くって言ってました」

「家庭科室?」


オリエンテーションをまだ受けていないから、家庭科室がこの学校にあるのかすら、1年4組の生徒たちは誰も知らない。


「家庭科室って授業ない日は開いてないよ」

「わたしもそう言いました」

「でも行っちゃったの?」

「たぶん開けられるって」

「ぷぷぷっ」


結のとなりにいて吹き出したのはマミだ。

マミの顔はすぐに覚えられた。水野先生の友だちにマミそっくりのマミって子がいたからだ。


「先生、ヴィンセントすごいこと言ってましたよ」

「すごいこと?」



ち ょ っ と せ い ふ く


つ く っ て く る



家庭科室のカギは開けられていて、そっとドアを引くと、そこには制服を着た1人の少年がいた。あの後ろ姿――


誰もいない静まり返っている家庭科室のど真ん中に独り。

ピンと伸びた背筋は、大草原で遠くを見渡すプレーリードッグを思わせた。

反省したのか制服は着ている。銀色の髪。鳥が住んでいそうなくらいぼさぼさ。間違いない。ミシンの前にいるあの少年は――ヴィンセント・VAN・海馬


赴任して以来、暴力事件はない高校だけれど、高校1年生の男子に腕力で勝てる気がしない。だからといって最初から弱気だときっとナメられる。くそ・・・やっぱわたし、高校の先生なんてむいてないよ。

致命的なのがほかの先生みたいに生徒を叱ることができない点。

あーあ。去年、あのタイミングでやめれば良かったんだ!

ため息しかない。もういい。どうでもいい。

水野先生は自分的には一番おっかないバージョンの声で、最初の一言を放った。


「ねぇ、そこで何をしているの?」


ヴィンセントは振り向き、そして笑顔で言った。


「あ! みづき先生、おはようございます!」



な ん で わ た し の 名 を ?  


そ れ も し た の 名 を !



ヴィンセントのまなざしは4月の日陰のように控えめで、その声色はとてもピースフルだった。気が動転して水野先生は思わず用意していたのとはまったくちがう言葉を発してしまった。


「大丈夫? 手伝おうか」

「マジですか! ありがとうございます!!」


こっちこそマジか! 

おい、わたし! どうしてそんなセリフを! 

もしかしたら記憶の奥底にいた、中学か高校時代のリトル・美月が飛び出してきたのかもしれない。家庭科室なんて懐かしすぎる。少女だったころ、家庭科大得意だった美月ちゃんはポニイテイルをゆらして、あちこちの班に声をかけていた。「大丈夫? 手伝おうか」って――


「じゃあ、すみません。そことここを押さえててください」

「あ、うん、いいよ」

「いきまーす」


ミシンがゴトゴトゴトと力強い低音をたてる。美月先生は日焼けしていない真っ白な両手で生地を押さえながら、教室をぐるりと見渡した。

学校内にあるのに教室じゃないみたいな教室。清潔で整理整頓されていて不思議なにおいがする。薄いクリーム色のカーテンは閉ざされていて、教室はほんのり暗い。水野先生の目から、なぜだかわからないけれどいきなり涙があふれかけたので、手を離してあわてて顔を覆った。


「先生?」


どうしよう。ごまかさないと、泣いてしまう。

涙を無理やり引っ込め、笑顔で尋ねた。


「ねぇ、これ、何を作ってるの?」

「あ、説明いります?」

「制服ってことはもちろんわかるけど、だって――」


ヴィンセント・VAN・海馬。なんて呼んでいいかわからないけれど、みづきと呼ばれたので一番下の名前で返すことにした。


「海馬くん、ほら、キミ、今日は制服、ちゃんと着てるじゃない」


美月先生は少年がまとっている制服にうるんだ目を向ける。


「ああ、これですか? これは金曜の制服」



き ん よ う の せ い ふ く ?



「今作ってるのは月曜の制服です。これとあと2着作らないと」

「あと2着?」

「はい。火曜と木曜の制服。この金曜も直さなくちゃいけないとこいっぱいあるけど」



ひ が わ り せ い ふ く と か !



「なんで?! 制服だよ。いいじゃない1着で」

「え? 美月先生、毎日同じ服着る派ですか?」



意味がわからない・・・ええ?! 潔癖症なのかな?!



「ちょ、ちょっとさ、1つ聞いていい?」

「あ、はい」

「それなら水曜と土曜の制服は?」

「水曜日は休むつもりですけど・・・え? 土曜もあるんですか、高校って」



ど こ に ど う ツ っ こ め と ?



混乱したものの、水野先生は現代文の先生らしく、落ち着いて海馬の文脈を読んだ。うん。データ不足なんだ。まずは傾聴あるのみ。ミシンに縫われているのは『月曜日の制服のズボン』らしい。丈をつめて、もも周りをふっくらさせるプランだと言う。


「タンタンが履いている、ニッカポッカのイメージです。月曜はタンタン」

「タンタン?」

「知らないんですか!」

「うん」

「うそ、タンタン知らないなんてダメですよ」


(後篇へつづく)

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