第三章

 俺はその晩、雑居ビルにある小さなスナックシャンのカウンターに座っていた。

 十分ほどしてから菅原が現れた。

「どうだ、通信網の復旧は順調か?」

「ええ、でも、あと二、三か月は必要です」

「そうか。なるだけ急いでくれ」

 今は日常の息抜きに通うこういう場所でさえまわりに神経を使い声を殺して話さねばならない。どこに誰が潜んでいるかわからないからだ。まさに壁に耳あり障子に目ありである。

「埼玉支部は最近かなりの同志を集めたそうだ。九州は相変わらず順調に拡大している」

「そうですか。俺たちも何とか頑張らないと」

「全国で一定の人数が集まり次第クーデターを起こす。まず、われわれの存在感を民衆にアピールしながら政府にもダメージをあたえる」

 するとそこに店のママのアケミが若いホステスを連れてきた。

「あら、お二人で真剣に何のご相談?」

「仕事の打ち合わせさ」菅原がそっけなくいう。

「あのね、今日から新しく入った留美ちゃん。よろしくね」

「留美です。よろしくお願いします」

 ママに紹介されたニューフェイスは年は二十歳過ぎくらいのまだあどけなさの残る素人っぽい娘であった。

「へえー、留美ちゃんていうの。なかなか可愛いじゃない」菅原はもう鼻の下を伸ばしている。

 それからの時間はママたちを含めた四人で他愛のない会話をして過ごした。留美はほとんど喋らず三人の話を聞いているだけだった。だが、その最中も俺に目線を注いでいるのがわかる。ママはそれを察したのか、「あら、留美ちゃん、菅原ちゃんともお話してあげてね。それとも岡ちゃんみたいな人がタイプかしら」

「いえ、そんなことは・・・」返事に困っている様子が素人っぽくてこれがまた可愛い。

「ええっ! そうなの? 岡みたいなのがタイプだったんだ。ま、仕方ないか。こいつは俺より遥かに若いからな」菅原は俺の顔を見てニヤリと笑った。

 日頃溜まっていたストレスをある程度発散させた俺たちは午後十一時過ぎにシャンを出た。菅原はかなり酔いがまわっていた。

 俺は千鳥足で歩く彼を肩で支えながら帰り道を歩いた。彼は意識が朦朧としてきた感じなので公園のベンチに座らせた。そのまま座って二人でしばらく夜風にあたっていた。そして彼は俺に、「なあ、岡、俺はこの道を選んで間違ってなかったよな」念押しするようにいう。

「当たり前じゃないですか。俺たちが間違ってるわけないじゃないですか」俺は語気を強めていった。

「そうだよな。すまなかった。俺はおまえを頼りにしてるんだ。頼むな」

「わかってますよ」

 彼は今までに何度も心に迷いが生じたのは事実だった。彼は妻帯者だった。家に帰ればまだ小さい子供がいる。その愛する家族を自分のために不幸のどん底に突き落としてしまうことになるかもしれない。それを恐れていることは痛いほどわかった。独り身の俺とは立場が違う。しかし今、彼に迷いの気持ちのひとかけらも持たせることは許されなかった。組織には強い団結力が必要だからだ。そのために俺がしっかり彼をサポートして働かねばならない。

 俺は彼を自宅まで送るとそのまま自分のマンションに帰った。

 俺の部屋は二階にある。部屋のドアの鍵穴に鍵をさしながら外を見た。誰かが隠れてこちらを見張っている気がする。俺はすばやく部屋に入ると内側から鍵をかけた。



 その日の午後は得意先のメンテナンスが立て込んでいた。

 俺は営業車で都内をまわっていた。荒川区にある国有老人ホーム若葉も会社の得意先のひとつだった。

 俺は工具を入れたカバンを持ち建物に入った。入口のすぐ傍には大きなフロアーがあり、多くの老人たちでごった返していた。車椅子の者、座って食事をする者、認知症なのか独り言をいって歩き回る者など様々だ。

 日本は膨れ上がる数の老人たちを養いきれず破綻したといっても過言ではない。数十年前に政府が行った誤った金融政策の結果、国の借金はどうにもならないほど膨れ上がった。中国政府は日本の借金の穴埋めに一千兆以上ある国民の財産を充てた。いわゆる預金封鎖をしたのだ。こうして日本の財政を健全化したのだった。まさに高齢者にとっては踏んだり蹴ったりの政策である。しかも国の福祉制度は機能が衰え、十分な介護サービスなど到底出来る状態にはなかった。この施設も同様であった。数少ない介護士たちが十人以上もの老人たちの世話を一人で担当して動き回っている。まさに重労働である。

 そんな中でまめまめしく働く一人の青年介護士の姿が俺の目に入った。

 胸に附けられた名札にはバッポーと書かれていた。彼は笑顔を絶やさず老人たちに丁寧に接していた。

 その時だった。一人の老婆が足早に玄関の方に歩いていき外に出て行った。介護士たちは誰もそれに気づいていなかった。俺はすぐに外に出て老婆を追った。

 そして老婆に、「おばあちゃん、外に出ちゃ危ないよ」と声をかけた。

 すると老婆は俺の顔を見ると嬉しそうに、「幸一、迎えに来てくれたんだね。会いたかったよ」そういうと俺に抱きつき泣き始めた。俺が困っていると、さっきの青年介護士がやってきた。

「すいません。ご迷惑おかけして」と俺に謝罪し老婆に、「外は寒いから中に入ろうね」と優しく声をかけた。

「あのね、幸一が迎えに来てくれたんだよ」老婆は青年にいう。

「そう、よかったね。じゃ、部屋に戻ろうね」そういって青年は老婆を連れていった。どうやらあの老婆は俺を息子だと思ったらしい。だが、あの青年は老婆の言うことを素直に受け入れていた。

 俺はなぜかその青年のことが頭から離れなかった。

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