第三章
日は沈み黄昏色の闇に包まれ始めた街はひっそりと静まり返り、まるで何もかもが見えない何かに怯えて息を殺して身を潜めているような、そんな夜がまた訪れた。
俺はそんな不気味な程静かなビルの谷間を歩いていた。
聞こえるのは俺の足音と風の音。それ以外には何も聞こえない。いや、俺以外の足音が聞こえる? 振り向くとそこには人は見当たらない。
「ふっ、また気のせいか」俺は気を取り直してまた歩き始めた
いつから日本はこんなふうになってしまったんだろう。かつては街は人で溢れ賑わっていたのだ。人々は互いに話し笑い歌った。自由だったのだ。法律を犯すことでなければ何をしてもよかった。そんな時代があったのだ。だが、俺が物心ついた時にはそのような時代は終わっていた。
時は西暦2054年。二十数年前から日本は少子高齢化による人口減少と著しい経済の衰退により急速に国力を失い、今やアジア近隣の経済大国に吸収されつつあった。その大国とは中国である。日本はいわば属国になり下がったのである。
中国は共産主義国家である。当然、指導者は日本にもそのやり方を押し付けてきた。もはや民主主義は消え去ったのだ。だが誰もが皆おとなしく服従したわけではない。中には異議を唱え反抗する者もいた。国家権力者たちは容赦なくその者たちを抹殺してきた。だがそう簡単に反抗勢力を根絶やしには出来なかった。彼らはレジスタンスとなって反政府組織を結成し密かに政府打倒の機会を狙っていた。俺もそんなレジスタンスの一人だった。
俺の名は岡裕次郎。三十三歳。秘密結社飛龍に在籍するメンバーの一員である。
俺は幼い頃に両親を亡くし親戚に育てられた。現在はマンションで一人暮らしをしている。天涯孤独のようだが俺には多くの仲間たちがいた。
俺はビルが立ち並ぶ大通りから細い路地に入った。十数メートル進むと古い建物の雑居ビルの階段を地下に降りていった。通路を進むと突き当りのドアに保坂運送と書かれた部屋がある。もちろんここは運送会社などではない。世間を欺くための偽看板である。
俺はドアを拳で四回ノックした。そして咳払いをひとつした。それがわれわれ共通の合図だった。すると明かりの消えていた部屋の電気が点いた。そしてドアが開き俺はすばやく中に入った。
「誰にも尾行されてないだろうな」メンバーの一人住川が念押しする。
「大丈夫だ。今日は何人集まっている?」
「五人だ。リーダーの菅原さんも来ている」
「そうか」俺と住川はその部屋の電気を消して奥の部屋に入った。
その部屋には三人の男と一人の女が長机の横の折りたたみ椅子に座っていた。
そのメンバーたちとは、まずリーダーの菅原一雄。四十一歳。それに中田茂樹。二十九歳。森村達也。三十歳。目黒良子。三十五歳。の四人である。それに住川輝幸。三十二歳。と俺を含めた六人が集まっていた。
「どうやら昨日、大阪支部が秘密警察に摘発されたらしい」菅原が報告する。
「何人捕まったんですか?」俺の問いに、「はっきりしたことはまだ分らんが、おそらく十人くらいはやられたかもしれない」
「誰かが口を割ればここも危ないじゃないですか」一番年の若い中田が不安そうにいう。
「そんな時のために目くらましの偽アジトも数か所作ってあるんだ。簡単には見つからんだろう」
だが確実に敵はわれわれを追い詰めてきていた。このアジトもそろそろ移らねばならないかもしれない。いったいいつまでこんな生活を続けねばならないのだろう。ここにいる者たちは皆大きな不安を抱いていた。
「今は苦しいがわれわれは一人でも多くの同志を作らねばならぬ。今が正念場だ」
菅原が皆を諭す。そうは言ってもわれわれの行っていることは地雷が無数埋められている広大な大地を手探りで歩いているようなものだ。下手をすれば即、爆死してしまう。しかし同志を増やし組織を拡大せねば何も出来ない。こんな体制であっても人々が真に求めているのは自由の筈だ。そう信じれば同志は増やせる。しかし群衆の中には反抗者を捕えるため訓練された政府のスパイたちが多く潜んでいてあちこちに網を張っているのだ。いわば彼らが地雷である。だが俺は自由を得る道を選んだのだ。たとえそれが命がけであっても。
俺は昼は情報通信機器メーカーの技術者として働いている。
俺が働いている所は株式会社であるが、今は国に半分以上の株式を保有され国有企業となっていた。
かつて日本の経済を支えてきた大手企業の九割以上がそうなっていた。従って会社の経営方針や理念などというものは国家が決めてしまう。従業員たちは皆いわれるがままに黙々と体を動かして働くだけであった。
そんな中、俺は組織からある任務を託されていた。それは海外との通信網を新たに作り出すことだ。かつては携帯電話の普及により誰もが世界中のどこの人とも容易に会話が出来た。しかし今は欧米諸国とアジア諸国の二つに分断され、すべての通信機器は遮断された。俺たちは今、アメリカやヨーロッパで何が起こっているのか全くわからないのである。だが全国に散らばる俺たち飛龍のメンバーたちが唯一頼みにしているのがアメリカであった。アメリカは民主主義国家である。大統領の任期は八年で指導者は変わっていく。かつては日米の関係は良好であった。中国も北朝鮮も沖縄に配備された米軍の存在があるから日本には手出しが出来なかった。だがアメリカの指導者が変わった。その指導者はアジアへの軍事的介入をすべて撤退させた。当然、沖縄からも撤退したのである。そうなると中国がアジアの覇者として君臨することは誰の目にも明らかであった。そしてアメリカと中国、ロシアとの間で互いの領域での干渉は一切しないということで同意したのである。だが俺たちはアメリカの人々にわかってほしい。この日本にもまだ自由を求めて必死で抗っているものが大勢いることを。
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