第ニ章

 平成二十三年六月九日、私は満二十六歳の誕生日を迎えた。

 その日の夕食は父と母が家族水入らずで誕生祝を催してくれた。

「恵理、誕生日おめでとう」

「ありがとう」そして私はケーキに立てられた二十六本の蝋燭の火を一気に吹き消した。

「恵理も二十六歳になったのね。焦っているのはママだけかしらね」

「またそれをいうの。私はその時が来たらちゃんと自分の相手は見つけるわよ」

 その時、バッポーのことが頭に浮かんだ。彼が東北に発ってから三か月が経っていた。ひと月前に元気でやっているとハガキが届いていた。しかし私の頭の中は彼のことでいっぱいだった。

「恵理は今仕事がおもしろくて仕方ないんだろう。ところで来年は衆議院選挙だ。ところがわしはもう六十だ。潮時かと思ってね」

「えっ! パパ引退するの?」

「正式には決めてないが・・おまえ来年の選挙に立候補してみる気はないかね?」

「ええっ、そんなこと急にいわれても・・」

「ま、ゆっくり考えてみてくれ」

 父の予想もしなかった発言に戸惑ったが、これは私が長年目標にしていたことである。父にそれを断る理由は何ひとつなかった。


 六月下旬のある朝のことだった。その日はずっと雨が降っていた。

 私が事務所の掃除をしているとドアが開き、「ただいま帰りました」と声がした。

 振り向くとそこに立っていたのはバッポーだった。大きなリュックを背負った彼の顔は真っ黒に日焼けしていた。私はすぐに言葉が出なかった。しかしすぐに待ち人が帰って来た喜びに胸は溢れた。

「おかえりなさい。ご苦労さま」

「はい、ただいま」

「大変だったでしょう。よく帰ってきてくれたわね」そして私は出発前の彼のプロポーズをОKした。もうすでに心は決まっていたのだが。

 私の突然の告白に父母、そして裕子、弘美も目を白黒させて驚いていた。

 父母はあまり乗り気ではなかったが、私の決心が固いことを知ると渋々了承した。裕子と弘美はあまりにも意外だったと口を揃えて言った。

 結婚式は裕子と同じく教会で挙げた。そして自宅の近くに2LDKの賃貸マンションを借り私たちの新居とした。もちろん彼は私が仕事を続けることには賛成した。逆に仕事を辞めて家庭に入りたいなんてことを言ったなら彼は反対しただろう。なぜなら彼はこれから二人三脚で私を支え助けていきたいと語ったからだった。

 それから間もなくのことだった。坂口秘書が急に辞めさせてほしいと父に申し出ていた。理由は一身上の都合ということだが、野党議員に引き抜かれたという噂もあった。

「坂口さんも突然辞めちゃうんだからびっくりするわよね。どうして急に」

「坂口秘書は恵理さんのことが好きだったみたいですよ」

「ええっ!」私はバッポーの突然の告白に驚かされた。

「どうして?」

「僕、いわれたんです。彼女を幸せにしないと許さないぞって。その時わかったんです。この人は恵理さんのことをずっと思っていたんだなあって」

 今まで全く知らなかった事実だった。何年もいっしょに仕事をしてきたのにわからなかった。私はなんと疎い女なのだろう。自分が情けなくなった。そして彼に言った。

「これからは恵理と呼んでね。もう夫婦なんだから」

「はい、これから心がけます」

 人の心が理解出来ずに政治家なんて務まらない。皆の心が理解出来てこそ前に進むことが出来るのだ。



 忙しい日々に明け暮れてまた年が明けた。

 今年はいよいよ衆議院選挙だ。だが今は以前と変わらず秘書の仕事に専念している。しかし心の準備はしておかねばなるまい。私はこれから多くの人たちの支持を得なければならないのである。今の時代、国民は見せかけだけのエサには釣られない。この疲弊した社会をどのように変えるのか。そのためにどれだけ体を酷使して働けるかである。それだけの覚悟がなければ立候補などする資格はないのだ。

 社会人になってからは多くのことを学んだ。夫バッポーにも数多くの大切なことを教えられた。他人の幸せこそが自分の幸せ。まさにそれだ。


 いよいよ選挙が迫ってきた。バッポーはポスターやビラ作り、選挙カーや人員の段取りなど身を粉にして動きまわってくれた。

 そして選挙日が公示され、選挙活動期間に入った。私たちは選挙カーで毎日走りまわった。街のあらゆる場所で声が嗄れるまで演説した。

 そして戦いは終わった。「あなた、ほんとうにご苦労さまでした。ありがとう」私は彼に労をねぎらった。

「お礼なんか言わないでください。恵理さん。いや、恵理もよく頑張りました」

「でもね、私、あなたにいろいろ教えてもらった気がするの。三か月もの間の東北でのボランティア活動の一つ一つを聞いてとても勉強になったわ」

「僕はそうしたかったから・・そうせずにいられなかったから」

「皆それが出来ないのよ。頭でわかっていても。でもそれが政治家の原点なんじゃないかしら」

「そうかもしれませんね」

「もうこれで落選しても悔いはないわ」私の心は清々しかった。

 そして私は当選した。議員としてのスタートを切った。

 父の事務所を上村恵理議員事務所として引き継いだ。新しい公設秘書も二名採用した。夫は政策担当秘書の資格を取るために勉強すると言ってくれた。

 他の議員たちとの会議や勉強会なども多く、スケジュールはかなり過密になった。それでも私は精力的に動いた。

 先日、夫婦で実家に帰り父母と夕食をとった際、それまで私たちの結婚に最後まで賛成しきれてなかった母がバッポーに、「不束な娘ですが何卒よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。

 何もかもがこれからという矢先だった。

 それは突然私の身に降りかかった。

 歩道を歩いていた私のところに猛スピードの車が突っ込んできた。私は命を奪われた。

 それは一瞬の出来事だった。まったく予想も出来なかった。しかし人生とは常に予想もしないことの連続なのだ。だから皆、その時々を精一杯生きようとする。そして幸せになろうとする。その原点が人を思いやる心なのだ。

 私は自分の人生を後悔しない。

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