第ニ章

 

 師走となり慌ただしい日が続いていた。後援会企業への挨拶回りも多くなった。

 その日、私はバッポー君と新宿区の会社を数社尋ねる予定になっていた。

「えーと、あと高頭薬品、河村電機、それと大川商事の三社ね。あと少しよ。場所はわかるわね」

「はい、大丈夫です」彼は私の運転手をしている時も楽しそうだった。 

 その時、私は大川会長夫人の葬儀の日のことを思い出した。

「ねえ、あなたのお爺様は大川商事の先代と親しかったと言ってたわね。それじゃ、あなたも大川家の人々と何らかの関わりがあるんじゃない?」

 なぜ彼にそのようなことを聞いたのかというと、あの時腑に落ちない点もあったからだった。

「関わりがありました」

「ありました?」私は興味をそそられた。

「先代は亡くなる前に遺言書を残しておられました。遺産の相続に関することです。ところがその内容というのが天と地がひっくりかえるぐらい驚くべきものだったんです」

「それはどんな?」

「先代は自分の財産をすべて祖父に相続させると遺言していたんです」

「ええっ!」私は思わず息を呑んだ。「それでお爺様はそれを受けられたの?」

「いいえ、放棄しました。但し九割をね」

「それどういうこと?」

「祖父は晩年、千葉の老人ホームで余生を過ごしていました。そして九十九歳で天寿を全うしました。でも祖父は大阪で生き別れた息子の行方をずっと捜していたんです。そして息子、つまり僕の父の居所がわかった時点で自分が受けた一割の遺産を父に贈与しようと考えたんです」

「それで?」私はその結果が早く知りたかった。

「ところが父は祖父がなくなる五年前、僕が二歳の時に病気でこの世を去っていました」

「そうだったの。あなたのお爺様はきっとやさしい方だったのね」少しの間、沈黙が続いた。そして彼の目に薄っすらと涙が溜まっているのがわかった。

「祖父が母と僕の居所をつきとめたのは亡くなる一年前のことでした。僕が孫であることがわかると僕に自分が受けた遺産を贈与したんです」

「と、いうことは今そのお金があるわけ?」

「いいえ、ありません。贈与を受けた時、僕はまだ六歳でした。母はその金を僕が二十歳になるまで全く手を付けずに預かってくれていました。そして僕が二十歳になった時に事情を話してそのお金を僕にくれたんです」

「それじゃ、そのお金はどうしたの?」

「ユニセフの募金に全額寄付しました」

「寄付したの!?」私は驚いた。

「僕がそんなお金を持っていても仕方ないんです。それより飢餓に苦しむ世界の多くの子供たちのために役立てたかったんです」

 私はポカンと口をあけて彼を見つめていた。

「それでそのお金っていくらあったの?」

「一億です」

「ひえっ!」私はまたしても驚かされた。つまり大川商事の先代は十億の財産を持っていたことになる。ここで疑問に思うのがその遺産から一億もの大金を赤の他人に相続させるということを大川家の人々がすぐに承諾したのかということだ。

「お爺様が遺産の一割を相続されるってわかった時は大川家の人たちと揉めたんでしょうね」

「いいえ、会長の正道氏、恵子夫人、それに洋蔵氏は了承されました。洋蔵氏の敦子夫人だけが異議を唱えていましたが最後には折れました」

「そうなの。大川会長も洋蔵氏も先代とお爺様に並々ならぬ深い絆があったことをわかっておられたのね」

「そうだと思います。祖父は父や僕の存在がなければ間違いなく全額相続放棄していました。それ程再会出来なかった父のことを思い続けてきたんだと思います」

 彼の目から涙がつたって流れ出た。



 忙しく過ごすうちにまた年が明けた。

 日本はリーマンショックの影響から今だ立ち直れず不況のどん底であった。

 そんな中、東北地方を未曾有の大地震が襲った。この地震で発生した大津波は東北の太平洋岸を直撃しすべてを呑み込んだ。死者、行方不明者とも膨大な数に上った。

 現地の被災者からは早急に救援を求める声があがっていた。こんな時に私たちはまず何をするべきなのだろうか。ところがあれこれ考えるだけで体が動かないのである。

 父はとりあえず義援金を集めることに着手しだした。そんな時、バッポーは皆を驚かすことを言い出した。しばらく休暇をとってボランティアの救援隊に参加し東北に行きたいというのだ。彼の申し出に父はそこまでする必要はないんじゃないか。と説得したが彼はクビになってもいいから行かせてほしい。と頼み込んだのだった。父も根負けし渋々了承した。

 そして彼が東北に発つ前日だった。その日は事務所に珍しく私に坂口秘書、それにバッポー君の三人が顔を揃えていた。

「バッポー、おまえバカじゃねえか。なんでそこまでする必要があるんだよ。一文の得にもならねえのによ」坂口が吐き捨てるようにいう。バッポーはしばらく下を向いて黙っていたが、ポツリポツリと喋りだした。

「僕は世の中の苦しんででいる人や不幸な人がいることがたまらなく嫌なんです。そんな人たちを一人でも多く幸せにしてあげたいんです」

「おまえってほんとうに変わってるよな。でも俺たちに迷惑かけてることだけは忘れるなよ」そういうと坂口は自分の鞄を持って事務所を出て行った。

「ほんとうにご迷惑かけることになってすみません」彼は申し訳なさそうに言った。

「いいのよ。でも体には気をつけてね」私は彼を責める気持ちはなかった。


 その日は雑用が多く、私たち九時過ぎまで仕事をしていた。そして遅くなったので彼に車で送ってもらうことになった。

 車が私の自宅に着くと彼は私に、「あの、僕と結婚してもらえませんか。初めて会った時から貴方のことが好きでした。僕が帰ってきたらイエスかノーかの返事をください」

 あまりに唐突な彼の告白に私は助手席から車外に出てしまった。

 そして彼は「お疲れ様でした」一言いうと車を発進させた。

 私は彼の車が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

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