第ニ章

ー恵理ー私を呼ぶ声で目を覚ました。そして私はベッドに寝かされていた。

「ママ、私いったい・・・」やっとの思いで声を絞り出した。

「気がついたのね。よかったわ。あなた、葬儀会館で倒れたのよ」

「そうだったの」そして徐々に記憶が甦ってきた。大川正道氏と会話している最中だったのだ。だが、どのような会話をしていたのだろうか。その内容がまったく記憶に残っていなかった。

「軽い貧血だって。でもかなり疲労が溜まってるみたいだってお医者様がおっしゃってたわよ。少しの間、静養して下さいって言われたわ」

「そうだったの。ママ、迷惑かけてごめんね」

 左腕を見ると点滴の針が刺さっていた。

「大川会長にもご迷惑かけちゃって・・お詫びしないと」


「それならママがよくお礼を言っておいたわ。でもね、恵理がここに運ばれた時に救急車で付き添ってくれた若い男の人がいたんだって。誰かお知り合いの方がいっしょだったの?」

ーバッポー君ー私はとっさにそう思ったが、「さあ、誰なのかしら」と恍けた返事をしておいた。そして私は彼のことを思い出していた。どこか頼りなく風采の上がらない雰囲気の彼が今では私の心の中で大きな存在感を持つようになってきていた。

 皮を剥いた林檎をジューサーに入れながら頼子がいう。

「ねえ、恵理。何も無理してこれからも秘書の仕事続けることはないんじゃない。女性にはきついのよ。それより花嫁修業に専念してどこに嫁入りしても恥ずかしくないようになってくれたら安心なんだけど」

「だから私はこの仕事が好きなんだって。自分がどこまで出来るか試したいのよ。これからは体調管理には気をつけますって」

「そう、あなたは言い出したら聞かないものね。でも無理してママに心配かけないでね」

「はい、わかりました」

 そして私は二日後に退院して自宅に戻った。大事をとって仕事は一週間休みを取った。

 それでも資格試験の為の勉強は休まなかった。来年には何としても合格せねばならない。家に帰って三日ほどで体は元の状態に戻っていた。そうなると早く仕事がしたくてうずうずしてくる。しかし父母は一週間はおとなしくしてろと言われているから仕方ない。日中はほとんど試験勉強の時間に費やした。朝早くから過去問に取り組んでいて気がつくと昼になっていた。

 ドアをノックする音がして、「お嬢様、昼食のご用意が出来ました」と多紀さんの声がした。私はキッチンに降りていった。

「あら、またママはお出かけね」

「はい、旦那様も奥様も今日はお帰りが遅くなられるそうです」

「そう、今日はピラフか。いただきまーす」私は多紀さんの作ったピラフを口に頬張った。

「お体はもう大丈夫でございますか?」多紀が心配して尋ねる。

「うん、もうこのとおりピンピン」

「そうですか。最近、お嬢様は働き過ぎなんじゃないかと心配しておりました」

「私はそんなに柔じゃないよ。来週からまたバリバリ働くぞ」

「それじゃ、今晩はスタミナをつけてもらうためにステーキにしましょうか」

「やったねえ」

 私は恵まれている。三度の食事に事欠くことはない。しかし世の中には食べるものも満足に得られない人も大勢いるのだ。この格差をなくさねばならない。これも政治家の仕事なのだ。

 いよいよ明日から仕事復帰する前夜、私は葬儀に着ていったスーツをクリーニングに出そうとポケットを確認していて携帯番号が書かれたメモを見つけた。そうだ。あの時、彼から受け取っていたのだ。あの時はすぐに捨てようと思っていた。私から彼に連絡することなどないと思ったからだ。しかし私が救急車で病院に搬送された時に付き添ってくれたのが彼以外の誰でもないことは確信していた。

 私は携帯を取り出し、その番号にかけた。相手はすぐに出た。

「あ、あの・・私、上村恵理です」

「ええっ!」相手は素っ頓狂な声を出した。

「あ、もしもし上村さん、まさかほんとうに電話もらえるなんて・・」彼はそういうと言葉を詰まらせた。

「この前は病院まで付き添ってもらったそうで・・どうもありがとうございました」

「あ、いえ、とんでもない。病院に着いたらご家族の方とは連絡がついたと聞いたんで僕は帰ったんです。それでお加減はいかがですか?」

「ええ、もう今はすっかり」

「それはよかった。あまり無理しないようにしてください」

「はい、ありがとうございます」そして少し間があいた。そして彼は、

「前にお話ししましたけど、僕は今、司法試験の為の勉強で必死なんです。来年には絶対合格したいと思って」

「私も秘書の資格試験が来年で猛勉強中です」

「そうなんですか。それじゃ僕たちは同志なんですね。お互いに頑張りましょうね。上村さん、今日はわざわざお電話頂いてありがとう。それじゃ失礼します」そういうと彼の方から電話を切ってしまった。

「何、それ」私は拍子抜けしたが、彼との会話でなぜか心がほんのり温まってきたような気がした。

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