第ニ章

「恵理、起きなさい。もう八時過ぎてるわよ」

 母がドアをノックし呼ぶ声で私は目が覚めた。-今日は午前中にパパの事務所に顔出しするんだったー慌ててパジャマを着替え顔を洗い髪を整える。

「ママ、おはよう」私は今だに父と母のことをパパ、ママと呼んでいる。子供の頃からの習慣が抜け切れず今日まできていた。しかし、それが一番親しみ込めて呼べるので好きだった。

「ママは今日は紅会の集まりで出かけますからね。恵理はパパの事務所にご挨拶じゃなかった?」

「うん、秘書の山本さんも今日の午前中だったら手すきだから来てもいいって。今から秘書のお仕事も見ておかなくちゃ」

「そう、でもお仕事の邪魔しちゃダメよ」

「わかってるって。私は早く政策担当秘書資格試験に合格してバリバリ仕事がしたいんだ。今から燃えるなあ」

「へえ、ママは恵理が大学を無事卒業出来たんだし、花嫁修業に専念して将来どこかのエリートさんと結婚してもらえると嬉しいんだけどなあ」

「そんなのいや。人生は一度きりなんだよ。自分の可能性をとことん追求しなきゃ。ところで今日は紅会で何するの?」

「まず、みんなでお茶してそれから昼食。午後はいけばな教室でそのあとはカラオケよ」

 紅会は父の後援会のひとつである。上流階級の奥様方が集まって十年前に結成されていた。私の母頼子も上流家庭の出身であった。母の父、つまり母方祖父は大手食品会社の重役を長年勤めあげていた。父と母の馴れ初めはお見合いから始まっていた。祖父源次郎は有力な政治家であり、母の実家もこんな良縁はないと喜んで承諾したのだった。

 港区白金台のこの豪邸に嫁入りした母は、はじめは姑で多少苦労はしてきたが、経済的には何ひとつ不自由せずに過ごしてきていた。そしてこの家で私は生まれ育った。

「このスクランブルエッグ最高よ。多紀さん、さすがだねえ」

「あら、ありがとうございます。わたくしはもう十五年もこちらにお世話になってるんです。お嬢様の好みは何でもわかりますよ」

 家政婦の多紀は五十五歳。私が小学生の頃から家で働いていた。

「じゃ、ママは先に行きますからね」

「はーい、いってらっしゃい」

 私は多紀さんが作ってくれた朝食を平らげると出かける準備に取り掛かった。


 父の事務所は港区元麻布の雑居ビルの二階にある。

 ドアをノックし挨拶して中に入る。

「お嬢さん、いらっしゃい。お父さんは今、議員会館の方に行かれてますよ」秘書の山本孝太が応対する。彼は年齢五十四歳。父のもとで働いて三十年にもなるベテラン秘書である。今は亡き祖父源次郎の代から仕えていた。

「山本さん、ひとりなの?」

「ええ、坂口くんも議員会館に行ってますから」

 坂口とは三年前にうちで公設秘書として採用した坂口誠である。年齢は二十七歳で頭のキレる若者である。

「あ、山本さん、不束者ですが来月からよろしくお願いします」私は頭を下げた。

「ああ、こちらこそよろしく」

「お手柔らかにお願いしますね」

「はい、お嬢さんは頭がいいから仕事は早く覚えられると思いますよ。只、秘書の仕事は体力が要ります。その覚悟はしておいてくださいね」

 私は空いている椅子に腰かけて事務所の中を見回した。山本秘書の机の上には父の顔写真つきのポスター、各後援会の案内、そして父のスケジュール表等が未整理の状態で積まれている。

「忙しかったんじゃないですか?」私は気を遣っていった。

「今日はまだ暇な方ですよ。朝から事務所にいられるんですから。とにかく私たちの仕事は雑用が多いんです」

 その時、電話が鳴った。

「はい、上村光三議員事務所でございます」山本が出るといきなり怒鳴るような声が受話器の向こう側から聞こえてくる。相手が何を言ってるかまではわからないが怒っていることだけは確かである。山本は只、平謝りに謝り続ける。

 私はその場にいるのが申し訳ない気がして電話する山本秘書に帰るという合図をして事務所を出た。なかなか秘書の仕事は大変なものだと思い知らされた。そして議員はその何倍、いや何十倍も大変なんだろうと。だけど私は負けない。自分で決めた道なのだから。

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