第一章

 昭和五十九年、日本は好景気に沸いていた。

 不動産価格は跳ね上がり、株価は上がり続けた。人々の暮らしぶりはよくなり、皆が金を使った。それがバブル経済だったと人々が気づくのはそれから数年後であった。

 世の中に金が出回ると、権力者たちはさらに自分の私財を増やそうと欲を出す。マスコミは政治家たちの金に関わる黒い疑惑を連日報道した。そしてその金の出所はたいてい大企業なのである。政治家にしろ大会社のお偉い方にしても皆、権謀術数なやり方しかしなくなっている。元来の己の使命を忘れているのである。

 私は会長に退いた後も会社には情報網を張り巡らし、常に新しい情報を入手していた。そのなかで気にかかっているのが、現在外務大臣に就任している政治家、上村源次郎氏であった。彼は何かと疑惑の多い人物である。今のところマスコミが疑惑に関する確実な証拠を見つけられないか、もしくは見つけたとしてもそれを金や圧力で握りつぶされてしまっているかであろう。今は表立って大きな話題にはなっていない。

 私が入手した情報によると、この政治家と大川商事が深く関わっているらしいということであった。

 私は密かに正道のお抱え運転手を呼んだ。そして久しぶりに会社に向かった。

 バッポーの後任に雇い入れた運転手は銀行員あがりで年齢五十歳の真面目そうな男であった。そして車内でそれとなく問いただす。

「社長は上村外務大臣のお宅に伺ったことがあるのかね?」

「いえ、そのようなことはございません」

「そうか、では外でお会いするようなことは?」

「さあ、わたくしは存じませんが、おそらくないと思います」

 なかなか口の堅い男である。


 社長室をノックすると中から、「はい、どうぞ」と声がした。

 私はドアを開けるとゆっくり中に入った。

「父さん、急にどうしたの? 用があれば俺から行くのに」

 座っている正道は十分に社長の貫禄を醸し出していた。

「いやいや、たまには会社の様子を見に来ないとな」

 私は持っていた杖を横に置くと来客用のテーブルの椅子に腰を下ろした。正道は私の正面に座った。

「最近どうかね?」

「今は景気がいいですからねえ」正道は煙草を一本くわえると火をつけた。

「実は上村外務大臣のことなんだがね」私がそう切り出すと正道の顔がピクリと動いた。

「わしの所にもいろいろ情報が入ってきてね。後ろめたいことはないんだな」

 わしは正道の目をじっと見た。正道は目をそらした。

「ずいぶん時が経ったもんだ。戦後の経済成長の波に乗ってわしは宋さんと二人でこの会社を立ち上げた。いろいろあったが人の道に外れたことはしなかったつもりだ。だからおまえも不正にだけは手を染めないでほしい」

「でも、父さんも昔、不正をしたことはあったよね」

「確かにそうなんだ。だからその傷は今だにわしの胸の奥に残っているんだ。そして時々その傷口が疼くんだよ。おまえにはそういう思いをさせたくないんだ」

「父さんの言ってることは正しいと思うよ。でも世の中綺麗ごとだけで渡っていけるのかな。俺は父さんから受け継いだこの会社を守っていかなきゃならないんだ。そしてもっと成長させないとならないんだ。そのためには俺ひとりが犠牲になってもかまわない」

 私は次の言葉が出なかった。そしてしばらくして正道を諭すように言った。

「なあ、正道、商売というものは顧客があってこそ成り立つものだ。客がいなくなった時点でどんな大会社も潰れてしまう。だから顧客のことを第一に考えるという方針だけは忘れないでくれ」

 私はそう言い残すと会社を後にした。-もう、私の役目は終わったのかもしれないー心の中でそう思った。


 翌年、昭和六十年。年明け早々私は風邪を拗らせ肺炎を併発してしまった。

 四十度近い熱が三日間続いた。国立医大付属病院に緊急入院し、抗生物質の投与と薬で何とか熱は下がったが大事をとってこのまましばらく入院することになった。正道と嫁恵子の計らいであった。

 その頃から私は自分の体力の急激な衰えを感じていた。それまでは身のまわりのことはたいてい自分でしてきたが、今は起きていること自体が苦痛となり寝ている時間が長くなった。

 私の入院期間が長引くと日々見舞客が多く訪れるようになった。たいていは会社関係の人間である。見舞い品も数多く並べられていた。果物の盛り合わせや高級メロン等。しかしそれらを食べたいという食欲はいっこうに湧いてこなかった。

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