第一章

 正道夫婦に次男が誕生した。会社も順調で正道は専務取締役に就任していた。

 私は二人の孫といっしょに暮らす平凡だが幸せな日々を送っていた。だが、妻の百合子は心臓に持病を抱え、定期的に通院する日課を送っていた。自宅でも床に臥せっている時間が多かった。私は時間があると百合子のそばについていてやった。

「もう春だぞ。外は気持ちいいぞ。早く元気になっていっしょに散歩しよう」

「そうねえ。若い頃、よく二人でデートした江戸川沿いの土手、つくしも顔出してるだろうな。また行きたいわねえ」

「うん、今度いっしょに行こう。絶対だぞ」

「ええ、楽しみにしてるわ」

 だが、百合子の病状は良くはならなかった。私は百合子のことが気がかりで仕方ないのだが、会社の最高責任者という立場であり毎日出社はせねばならない。 

 ある日の午後のことだった。バッポーがあわてた様子で社長室に駆けこんできた。

「竜ちゃん、大変だ。百合子さんが倒れた!」

 私はそれを聞き頭の中が真っ白になった。すぐにバッポーの車で百合子が搬送された病院に向かった。

 百合子の病室は静かだった。

 眠る妻の横には正道の嫁の恵子が付き添ってくれていた。

「あら、お父さん、今は注射で眠っていらっしゃるわ。応急処置はしたから落ち着いてます」

「恵子さん、世話をかけたね。ありがとう」

「お母さん、今日は気分がいいからお父さんの好きなちり鍋を作るって台所に立っておられたの。そしたら大きな音がして・・」

「そうだったんですか・・バカだな」

「私、ちょっと炊事場に行ってきます。少しの間、お願いしますね」

 恵子はいくつかの湯呑を乗せた盆を持って病室を出て行った。百合子は静かに眠っていた。

 私は百合子の顔を見ていると遠い過ぎし日のことが頭の中を駆け巡った。大衆食堂で初めて出会った日のこと。川沿いの土手に腰を下ろして話をしたこと。京都に旅行したことなどがどれも懐かしく甦ってきた。

「百合子、わしより先に死なんでくれ。お願いだから・・・」そう呟くと止めどなく涙が溢れ出た。

 百合子の容態急変の知らせを聞いて横浜から洋蔵も駆けつけて来た。

 今では鶴見区に一軒家を買い、所帯を持ち子供も二人いた。

 その日の晩、私は久しぶりに二人の息子たちと顔を突き合わせて晩酌した。

「びっくりしたよ。前から具合よくないって聞いてたから・・でも落ち着いてよかったよ」

「洋蔵、おまえもたまには顔を見せに帰って来なさい。母さん、おまえのことを一番心配してるんだから」私は諭した。

「わかってますよ。だけど今、仲間たちと新しい出版社を設立しようということで結構忙しいんだ」

 洋蔵は人物伝記物の作家として作品をいくつか世に出してはいるが、どれも売れ行きはパッとしなかった。しかし所帯を持ったからには家族を食べさせていかねばならない。それで今まで私は何度か金銭的援助をしてきた。親バカといわれるだろうが、我が子に泣きついてこられると放っておけないのである。

「出版社なんか作って大丈夫なのか? もう尻拭いはしないからな」正道が釘をさす。

「大丈夫さ、今度は。俺だって一生懸命やってるんだ。早く一流になりたいと思って」

「一生懸命は誰だって同じさ。だけど稼げなきゃどうにもならんだろう」

 その正道の言葉に洋蔵は、「兄さんはいいよな。長男という立場にあるから立派に父さんの跡を継げる。今や大川商事は飛ぶ鳥落とす勢いの成長じゃないか。俺は次男に生まれたばっかりに・・・」

「洋蔵、そういう言い方はやめなさい。正道は血の滲むような苦労をして会社をここまでにしたんだ」

 私は見かねてそう発した。洋蔵は黙っていた。アルコールがまわってつい本音が出てしまったのだろう。しかし私は十代の頃の純粋に文学を愛し、その道を究めようと志していた彼が今ではずいぶん変わってしまったと思った。やはり金というものは人を変えてしまうものなのだろうか。


 それから三か月後、百合子は病院で静かに息を引き取った。

 まるで眠るように安らかに逝った。私はこの上ない大きな悲しみに打ちのめされたが、せめてもの救いは彼女が死の間際、私といっしょになって幸せだったと言ってくれたことだった。

 百合子の死後、私は精神的に一か月間はどん底の状態に落ち込んでいた。

 そんな私を励ますためにバッポーが度々訪れた。彼の笑顔を見る度に私は徐々に元気を取り戻していった。

 それから間もなく私は一大決心をした。会社の代表取締役を正道に譲ろうと。

 私は会長職に退いて七年の歳月が流れた。

 オイルショックなどという日本経済を混乱させる出来事は二度ほどあったが、大企業に成長した大川商事の屋台骨を揺るがすものではなかった。

 バッポーは本人の希望で六年前に退職し、千葉にある有料老人ホームに入所していた。

 私の日課といえば週に二、三回囲碁クラブの老人仲間と碁を打つか、庭の植木の手入れをするぐらいであった。しかし週に一度はバッポーの顔を見に千葉に出向いていた。その施設は九十九里浜沿いにあり、たいへん見晴らしのよい場所である。

 その日、バッポーを訪ねると、娯楽室で大勢の入所者仲間に囲まれ雑談する彼を見つけた。私は離れたところからしばらく様子を見ていた。この時、私はなぜか彼が羨ましく思えた。どんな人にも好かれ人を惹きつける魅力を持つ彼に対して。

 バッポーは私の姿を見つけると足を引きずりながらやってきた。

「竜ちゃん、来てくれたのか」

「ああ、しかしおまえは人気者だな」

「そんなことないよ。皆いい人なんだよ」

 そして彼の個室部屋で二人で話をする。

「おまえは相変わらず元気そうだな」

「バカは長生きするんだよ。竜ちゃんも元気そうじゃ」

「わしはこのところ腰を痛めてな。病院通いさ」

 バッポーは神妙な面持ちになると、「俺は竜ちゃんに心から感謝してるんだ。今までほんとうによくしてもらって」

「そんなこと気にすんな。親友だろ」

「だけど、ここに入所する金だって出してもらってるしな」

「あれはおまえの退職金じゃないか。ほんとうにわしの為によく働いてくれた。ありがとう」

「なあ、竜ちゃんもここに来いよ」

「わしは死ぬまで会社の行く末を見届けていかにゃならんのだよ」

「そうだな。竜ちゃんが心血注いで作った会社だからな」

 そして窓の外の沈みゆく夕日を二人でいつまでも眺めていた。

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