第一章
私は時間があると近所をぶらぶら散歩するのが好きである。
外の風に吹かれて街の景色を見ながら歩いていると心が癒されるのである。
いつものように公園の横を歩いていると、ベンチに腰かけて本を読んでいる洋蔵を見つけた。私は黙って近づき横に腰をおろした。洋蔵は私を見て少し驚いている様子だった。
「よくここで本を読んでいるのか?」
「うん、ここの方が家よりも落ち着くから」
「そうか」それからしばらく沈黙の時が過ぎた。
「おまえは小説家になりたいのか?」私はそう切り出した。洋蔵は黙っていた。
「父さんは正道にもおまえにも父さんの会社で仕事をしてくれると嬉しいんだがなあ」
すると洋蔵はポツリポツリと喋りだした。
「俺は商売に興味ないし・・正道兄さんみたいに向いてないと思う」
「向いてるか向いてないかやってみなきゃ分からんじゃないか」
「でも俺は文章を書くことの方が好きなんだ」
「それで将来、身を立ててやっていく自信はあるのか?」
「それはわからないよ。でもこの前に読売文学賞を受賞した阿川弘之のような作家になりたいんだ。文章は魔法だよ。作者の感性でどのような物語でも書けるんだから」
普段は無口な彼が目を輝かせて自分の意見を言ったのをこの時初めて聞いた気がした。
「そうか。わかった」私はそう答えるしかなかった。
五年の歳月が過ぎた。設立した大川商事は急成長し、社員二百人を抱えるまでになっていた。新宿の本店以外に名古屋と大阪に支店を設立していた。扱う商品も綿以外に鉄鉱石や石炭なども手掛けるようになっていた。
宋氏は発足時から専務取締役として私の右腕となってくれていた。息子の正道も大学卒業後わが社に入社し三年が経っていた。正道は私が期待した以上の仕事をこなしてくれていた。それで先月営業課長の役職を与えた。バッポーには私の専属運転手として働いてもらっている。何もかもが順調ではあったが、気がかりな事もあった。それは宋氏と正道の意見が何かにつけ対立することであった。
宋氏はどちらかといえば慎重派。それに比べ正道は積極的推進派であった。宋氏は正道が私の息子であることで遠慮し、正道はそれを権威として利用しているのかもしれない。いずれにせよ私は二人に何とかお互い協力してやってもらいたかった。だが、私の思いに反して両者の溝はさらに深まりつつあった。
アジア諸国との取引を迅速に進めるため新しい支店を九州の福岡に設立するという案が出た。それは宋氏の発案であった。彼は中国との取引をさらに増やしたいと思っていた。それに対し正道はアメリカやヨーロッパ諸国との取引を重視していた。
ある晩、私と正道は二人きりで話した。
「なあ、正道、今度の福岡支店設立の件、わしはいいと思うんだがなあ」
「今、九州に支店を出したからといってそんなにメリットあるかなあ。ひとつ支店を出すのにも大金が必要なんだし・・・俺なら新しい支店を出すなら関東にするな」
「だが中国との取引はスムーズになるんじゃないか?」
「父さん、これからはアメリカだよ。世界一の経済大国なんだから。次がヨーロッパかな」
確かに正道はアメリカ企業との取引を倍増させ会社の業績を著しく押し上げていた。それに比べ中国企業との取引はここ数年横ばいであった。
最終的に私の判断で福岡支店の話は却下したのであった。
一年後、私は江戸川区の自宅を売却し、田園調布に百坪あまりの土地を買い新しい家を建てた。
正道は結婚し私たち夫婦とも同居することになった。洋蔵は家を出て独立した。そしてバッポーの部屋も作ってやった。私を会社へ送り迎えするのが彼の日課だった。だが、二人が車内でする会話は子供の頃からと何ら変わってはいなかった。
「竜ちゃん、ほんとによかったな。会社もこんなに立派になって」
「ああ、おまえもいろいろと頑張ってくれたし・・・」
「俺は何も出来ないしよ。俺こそ竜ちゃんの世話にばかりなって」
「そんなこと気にすんな。幼馴染なんだから。でも俺はほんとうに幸せ者だ」
「でも竜ちゃん、悩みあるんだろ?」
「ええっ!」
「宋さんと正道くんのこと」
「おまえ、どうしてそれを?」私は驚いた。なぜ彼が会社の内情を知っているのか。
「そのこと誰かに聞いたのか?」
「誰にも聞かないよ。俺は毎日竜ちゃんの顔見てるんだぜ。そのくらいわかるよ」
確かにそうだ。彼は私以外の会社の人間とは接触を持たない。それではなぜ・・
思えばこのようなことはこれが初めてではない。丁稚奉公時代にもあった。時折、私はこの男が人を超越した存在であるかのような錯覚に陥る。
「なあ、バッポー、人はどうして相争うのかなあ。同じ人間同志なのによう」
「それは皆が自分のことしか考えないからじゃないかな」
「そうだな。おまえは自分のことより人のことばかり考えているような奴だからな」
「俺はな、まわりの人間がみんな幸せだと俺も幸せなんだ。だから戦争に駆り出された時、こんなばかげたこと早くやめたかった。俺は鉄砲を一発も打たなかったし、手榴弾だってひとつも使わなかったんだぜ。おかげで自分に弾当たっちゃったけどな。ハハハ・・」
「そうだったのか。俺たちこれからも親友でいような」
「当たり前だよ」
そして私はこれまでの歳月の流れの早さを感じていた。今や二人は六十を超えた初老になっていたのだから。
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