第一章

三年の歳月が過ぎ、百合子は無事に次男の洋蔵を出産した。

賃貸アパートは引き払い、江戸川区に一軒家を買った。ある日、私は宋氏を新居に招待した。

「まだ片付けも終わってなくて・・狭い所ですいません。何もないんですけどごゆっくりしていって下さいね」

百合子が丁寧にもてなす。

「はじめまして。宋と申します。ご主人にはいつも助けてもらってるんですよ」

「これからもよろしくお願いいたします」

「それにしても綺麗な奥さんですね。大川さん、羨ましい」

「まあ、お口がお上手ですわね」

百合子が恥ずかしそうに頬を赤らめる。そして百合子が作った料理を前に乾杯する。

「私はね、このまま宮使いでは終わりませんよ。日本でいつか商いをするつもりです」

「宋さん、そんな事考えてたんですか」

「ねえ、大川さん、その時はいっしょにやりましょうよ」

「えっ、私と・・・」思いがけない宋氏の言葉に驚いていると、

「私は大川さんと組んでやりたいんです」

「私もね、そういうことは考えていました。いつかは自分の力でビジネスしたいなんてね」

少し酔ってきたせいもあって私は宋氏に自分の本心を暴露した。ビジネスをする相棒として宋氏は申し分はない。しかし、宋氏のことでまだ知らない事は多かった。

「宋さん、ご家族は?」

「中国の広東州に妻と子供がいます。私の家は貧しい農家で生活は苦しかったんです。だから十年前に日本に出稼ぎに来ました」

「そうだったんですか。心配ですね」

「でも皆元気でいるみたいです。将来は日本に呼びたいと思っています」

「そうですね。それがいいですよ。家族といっしょがいいです」

その晩は二人で飲み明かした。そしてお互い時の流れの早さを感じていた。宋氏は四十前。私はもう四十を過ぎていたのだから。


時代の流れはまたしても大きく変わろうとしていた。

昭和十二年、支那事変が起こったのである。いわゆる日中戦争だ。そして日本はまたしても戦争の渦に巻き込まれていった。

ビジネスもだんだんとやりにくくなっていった。輸出入を規制する(輸出入品等臨時措置法)も発令された。日に日に世の中が何か重苦しい空気に包まれていく。そんな感じだった。

ある日、宋氏から思いもよらぬ事を告白された。

「大川さん、突然なのですが私、中国に帰ろうと思います」

「ええっ! どうして急に」

私は度肝を抜かれた。

「今度の戦争で日本人と中国人が争ってます。戦争は民族どうしに憎しみしか生みません。だから一旦祖国に戻ります。でも私は日本の人を憎いとは思いません。大川さんも社長をはじめ会社の仲間たちもみんな好きです。だからこの戦争が終わり日本と中国が仲直りしたら私はまた日本に戻ってきます。そのときは私たちの夢を必ず実現させましょう」

「宋さん、必ず戻ってきてください。私も日本で頑張ります。そしてこんな戦争が一日でも早く終わるように努力してみます」

「必ずまた会えます。その時までの辛抱です」

そして三日後、宋氏は船で中国に帰っていった。

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