第一章
今日も仕事を終え午後八時をまわった頃、寮のとなりで営業している大衆食堂に夕食をとりに入った。
「いらっしゃーい」
若い元気な声が私を迎えてくれた。
「おつかれさま。今日は鯵の干物と卵焼きですよ」
「あ、じゃそれ下さい」
「はーい、定食一丁」
この店には今まで何度か来ていた。私がここに来るもうひとつの理由にいつも明るく接待してくれる若い女子店員の存在があった。年の頃は二十四か五というところ。いつも見せてくれる屈託のない笑顔が私の一日の疲れを癒してくれた。
私はいつしかこの食堂に通うのが日課になっていた。会社が寮として借りてくれている四畳半一間のアパートでの生活もだいぶ慣れてきたある休みの日、偶然道で彼女と出会った。
「あら、こんにちは。この近くにお住まいですか?」
「ああ、こんにちは。僕、お店のとなりの青葉荘に住んでるんです」
「あら、じゃあ加藤商事の方?」
加藤商事とは私が今勤めている商社である。
「ええ、そうですけど・・どうしてご存じですか?」
「以前にも加藤商事の社員さんがここに住んでおられたから」
「そうなんですか」
「お名前まだ聞いてなかったわね。私は武田百合子。どうぞよろしく」
「大川竜蔵と申します。よろしくお願いします」
初めての自己紹介は何とも堅苦しいものだったが、それから百合子との間柄は少し親しくなった。
それからも不景気は続き年号は大正から昭和に変わった。
相変わらず東南アジア諸国の仲買人と交渉はすれど思うように商談は成立しない。だがこの時代に最低食うだけの賃金を頂けるのも有難いことなのだ。私は宋氏に深く感謝していた。そしてこんな生活のなかで唯一心の拠り所となっているのが百合子の存在だった。
それからはお互い時間の合間を見つけて会うようになっていた。百合子と過ごす時だけが私にとって癒しの時間であった。デートといっても別に洒落た所に行くわけではない。只ぶらぶら歩いたりベンチに腰かけて話をするぐらいの事である。でもそんな時間がいつも待ち遠しかった。
青葉茂る初夏のある日、二人は川沿いの土手に腰を下ろしていた。
「ねえ、大川さん、浅草オペラって知ってる?」
「ああ、聞いたことはあるけど」
「私ね、あそこでコーラスボーイやってる榎本健一のファンなのよ」
「百合子さんは芝居が好きなんですか?」
「ええ、休みにはよく浅草に見に行ってたんだけれどこの前の震災で被災して・・でも榎本さんは京都の方で剣劇とかやってるらしいの」
「ふうん、そうなの」
「もう一度、見に行きたいなあ、榎本さん」
「それなら今度、いっしょに京都に行きませんか」
「ええっ! ほんとに」百合子は目をまるくして喜んでいた。
でも私はその時、自分が何故そんなことを言ったのかが不思議だったが、とりあえず百合子が喜んでくれて胸をなでおろした。
最近よく思う。自分が歩んでいるこの人生が夢なのではないだろうかと。これが現実なのかどうか疑わしい気持ちになるのである。幸福な時ほどなおさらに感じるのだ。所詮人生なんてはかない。必ず死がおとずれ終わってしまう。出来ることなら永遠に終わらせないでくれと神に懇願したい。今まさにそういう心境だった。
百合子と京都への旅に出てあっという間に三日間が過ぎていた。
二日目に京都の嵐山で榎本健一が演じる野外剣劇を二人で観覧することが出来た。百合子はこの上もなく喜んでいた。そんな彼女を見ていて私は幸せだった。
その夜、私たちは結ばれた。百合子は私をすんなり受け入れてくれた。彼女は処女だった。私は感激し彼女の若いはちきれんばかりの乳房の勃起した乳首を口にした。まさに陶酔のひととき。そして今こうして過ぎゆく時間が何にも代えがたく刹那的になった。
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