第一章
国立医大付属病院の特別個室はシンと静まり返っていた。
ベッドの傍らに担当主治医である医師と看護婦、そして親族たちが無言で力なく横たわる一人の老人の私を見守っている
私の名は大川竜蔵。92歳。大川商事(株)創設者で現会長。私は今まさに人生の終焉の時を迎えようとしていた。
世は昭和のバブル絶頂期。それまでの日本の高度経済成長の原動力のひとつの歯車として働き続けた自負と満足感には充分満たされていた。
人工呼吸器は据え付けられていたが、呼吸は浅く早く、そして弱くなっていくのがわかる。苦しい・・・だが意識だけは鮮明だ。まもなく私は死ぬ。そう覚悟は決めていた。誰しもが自分の死について一生の間に幾度かは考えたことがあるであろう。私も自分の死の時がどんな状況になるのか日頃から想像はしていた。しかし、現実は日頃想像していた状況とはかなり違っていた。
予想では死に対する恐怖心で身は打ち震え、苦痛にもがき苦しみぬくであろうと思っていたのだが、その時が来てみると心は至って冷静で穏やかなものだった。息の苦しさもなぜか妙に心地よく感じる。
私の人生は一般的に見れば成功者のものということになるかもしれない。
今、静かに頭の中をそれまでの波乱に満ちた92年間の人生が走馬灯のように駆け巡り始めた。
明治28年。私は静岡県の貧しい農家の三男として生まれた。
子供時代は家が貧しく、人手不足もあって小学校にもろくに通わせてもらえず家の手伝いをさせられた。
「もう、そろそろ竜司と竜蔵のこと考えにゃいけにゃあずら」
「そうずら、今年も不作だーで。このままじゃ一家飢え死にだで。竜一は跡取りだで仕方ないけんど竜司と竜蔵は東京に出稼ぎに奉公に行ってもらうしかにゃーで」
寝ていた私は隣の部屋から聞こえる両親の会話を聞き子供なりの覚悟を決めていた。しかし、働きに出されることを辛いいやなことだとは思っていなかった。子供心に片田舎を飛び出し日本の中心である東京に行けることに対しいいようのない期待感と好奇心を抱き胸を躍らせたものだった。
そしていよいよ東京に奉公する日となった。奉公先は老舗の金物屋。
東京に奉公に出される村の十代の少年たちは静岡駅に集まり蒸気機関車の到着を待っていた。
この少年たちの中に私と同じ村出身の者がもう一人いた。それは幼馴染のバッポーであった。彼とは同い年で何かにつけてよくいっしょに遊んだものだった。彼は勉強も運動も決して出来る者ではなかった。実家も私同様に貧乏であった。
そんな彼になぜ私が惹かれていたのか。おそらく自己顕示欲などは微塵もなく、裕福な友達に対する羨望や妬みの感情も一切感じとれない。そんな屈託のない彼の笑顔がいつも私を励まし続けてくれていたような気がするからだ。そしてどんな事でも彼になら話すことが出来た。
それに引き替え私はというと自慢ではないが人一倍羨望心が強かった。それは自分の出生を不運と捕え、必ずどん底から這い上がり頂上に立って見せるという気迫が子供時代から強かったからだ。貧乏人とバカにした族たちを必ず見返してやるんだという気概があった。
私とバッポーは金物屋大手の四井金物店に奉公することになった。
丁稚の仕事は朝早く夜は遅い。店の掃除から雑用という雑用はすべてやらされる。私は耐えて働いた。だが、バッポーは何をするのも楽しそうに動く。
「おまえ、いつも楽しそうだな。こんな寒い朝早くから雑巾がけしてるのによう」
「俺はな、竜ちゃん。皆の笑う顔を見るのが好きなんじゃ。他の者より働いたらご主人も番頭さんも笑顔になるじゃ」
「ふうん、おまえそれだけでほんとに楽しいんか?」
「うん、楽しいずら」そういって屈託なく笑う。
彼がまったく理解出来ない。時々こいつはほんとうにバカではないかと思うことがある。だが、心から軽蔑できない。無視することもできない。彼は何らかの魅力を持っているのだ。私にはない何かを。
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