四、カッコイイ生き物

「一旦引いたと思ったのに、困ったわね…」


 その日、家に帰った仁は一言も発さず、夕飯に出された好物のカレーにも手を付けることはなかった。心配した母が熱を測ると、温度計は三八度。


 土砂降りの雨の中、夜の緊急病棟へと駆け込むことになった。


「飲み物を買ってくるわ。 ここに座って待っててね」

「………」


 燃えるように熱い身体に、額に貼られた熱さまシートのヒヤリとした感じがひたすらに気持ち悪くて、項垂れて目を閉じていると、前方の方から聞き覚えのある素っ頓狂な声が上がった。


「あっれえ~? ジンー?」


 重い頭をもたげ、声のする方を見やるとそこには先日出会った少年、徹が首を傾げて立っていた。その手には、赤い飛行機が握られている。


「…とおる、」

「風邪引いたのか? 大丈夫か?」


 と矢継ぎ早に聞いてくる徹を遮り、仁は蚊の鳴くような声で問いかけた。


「なんでいるの」

「俺のとーちゃん、今入院してっから! だから俺、今日は泊まりに来たんだ」

「入院…」


 そっか、徹の父ちゃん、入院してるのか…。俺の父ちゃんは、今何してんだろ…。


 パズルができた。折り紙が折れた。プラモデルを作った。どんな小さなことでも手放しで褒めてくれた父親を思うと、なぜか無性に寂しくなって、鼻の奥がツンとした。


「…気分、悪いのか?」


 心配そうにこちらを覗き込む徹を前に、それまでとどめていた感情の波が、一気に押し寄せる。


「船…」


 一度言葉にしたら、惜しさでぽろぽろと涙が零れてきた。

 図工の時間、宮田と酒井が、船が、落ちて、壊れて、それで…。


「おれ、ほんとに頑張ったんだ、なのに…」


 最早時系列など考える余裕もなく、ただの単語の羅列でしかなかったが、それでも徹は急かすこともせず、ただ静かに最後まで聞いてくれていた。


「そいつら一発、グーパンチだなー!」


 仁が一通りの経緯を話し終えた後、徹はそう言うとキーッと歯を剥きだしにして両手を振り上げる仕草をして見せた。自分のことのように、それはそれは悔しそうに怒る徹の様子が妙に滑稽で、仁はたまらず吹き出した。


「何笑ってんだよ。お前のことだろー!」


と言いつつ、泣き笑い状態の仁につられて、徹も笑い出した。


「流石に手を出すのはまずいよ」


 ごしごしと袖口で涙と鼻水をぬぐうと、仁は


「それに悪気はなかったって言ってたし」


と困ったような表情で笑った。


「お前、優しすぎ。 そういう時は、怒っていいんだよ!」


 そう言って不服そうに唇を尖らせる徹は、突然何かを思い出したように声を上げた。


「あ! そうだ。 これやるよ」


 そう言って差し出されたのは、ウサギ柄の、シールの束だった。


「…うさぎ?」

「そう、ウサギ! カッコイイだろ?」

「かわいい、じゃなくて?」


 女の子が使いそうなシールを、目の前のこいつは「カッコイイ」と言う。

 不思議そうに首を傾げる仁に、徹は白い歯を見せてにししと笑い、得意げに語る。


「ジン、知らねーの? ウサギは前にしか跳べないんだぜ」

「? それがどうかしたのか?」

「あー、もう! わっかんねーかなあ。 ウサギは物事のヤクシンのショーチョーなんだよ!」

「ヤクシンの、ショーチョー…」

「そう! ウサギはいいことをいーっぱい、連れてきてくれるエンギのいい生き物なんだって。 父ちゃんが言ってた」


 な? カッコイイだろ? 俺もここに貼ってんだー! そう言って徹が撫でた翼の部分には、ちょこんと、二匹のウサギが並んで座っていた。


 それを見つめる徹の目は、とてもキラキラしていて、それまではただの可愛らしいだけの小動物だと思っていたウサギが、最高にカッコイイ生き物に思えてきた。


 躍進の象徴。縁起のいい生き物。


「うん。 カッコイイね」


 仁は、素直にそう応える。


「だから、大丈夫だよ。 ぜってー直せるよ。 船」

「間に合うかなあ…」

「エンギのいいウサギと、魔法の手があれば大丈夫だって。 な! 俺が保証する」


 徹の冷たい手に、ぐいっと両手を引き寄せられる。大きなこげ茶色の瞳に視線を合わせていると、本当に何とかなりそうな気がしてくるから不思議だ。


「わかった。 俺、やってみるよ」

「完成したら、俺にも見せてよ。 ジンの船!」

「うん、約束する」

「言ったな? 絶対だぞ!」


 そう言って、二人はへへへ、っと笑って夜の病院で指切りを交わした。

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