二、魔法の手
診察は、大体いつも五分くらいで、先生が話す内容もほとんど同じ。
「やあ、仁くん。また熱が出たのかい?耳と鼻を見せてね……今回も中耳炎にはなっていないようだけど、ちょっと喉が腫れているみたいだ。薬を出すから、朝ごはんと夜ご飯後の一日二回、ちゃんと飲むんだよ。それじゃあお母さんも、お大事にどうぞ」
「ありがとうございます」
よくもまあ、二人とも毎回飽きずに同じやりとりができるものだ。…なんて言える立場では到底ないけれど、しんどい思いをして来たって、いつもこれだもんなあと思わずにはいられない。
(もっと、強くなれればなあ…)
診察室を出て早々に、はああ、と大きなため息を吐いたぼくを見て、母さんが「疲れた?」と顔を覗き込んでくる。
正直、頭はまだ痛む。喉もイガイガしてるし調子は最悪だが、これ以上余計な心配をかけたくなくて、「ううん」とだけ返した。
「そう? とにかく今は無理しちゃダメよ。 風邪は引き始めが肝心なんだから」
「…そんなこと、言われなくたってわかってるよ」
喉元まで出かけた言葉は、けれどやっぱり自分の身を案じてくれている母さんに言えるはずもなく、仁は小さく頷くにとどめた。
🐇
その後、会計を済ませ、母さんが入院している友人の病室を覗いてくるというので、ぼくは貰った五百円玉をポケットに大事にしまい、院内の小さな売店に足を運ぶ。病院は嫌いだが、帰りに時たまここに立ち寄り、好きなアイスやお菓子を買えるのが、不幸中の唯一の楽しみになっていた。
今日は何を買おうかな。熱冷ましにアイス…いや、ここはあまり買ってもらえない炭酸ジュースか? でも喉が不調だから飲んでもおいしく感じないかも…。
そんな調子でしばらく棚の前でうろうろと迷っていると、ふわっ、とどこからか吹いてきた風に乗って、白い何かが目の前をよぎった。
突然の出来事に頭が追い付かず、まず飛んできた物体の方へ視線を移すと、すぐそばには紙飛行機のようなものが腹を上にして落ちていた。拾い上げて羽の部分を見てみると、そこにはヘタクソな大きな字で「
「あ、ごめんな! それ俺の!」
声のする方を振り返ると、先ほど窓外に見た長靴少年が、へらへらと駆け寄って来るところだった。
「君が、とおる」
自分よりも若干背の低い少年をはたと見つめ、確認するように名前を呼ぶと、少年は「そうだよ」と言って白い歯を見せて笑った。
「おれ、岸辺トオル。 お前は?」
「ぼく?……ぼくは、ジン。 金田
「ジン! へー、カッコイイ! 漢字は?」
かんじは? …ああ、漢字のことか。単語単語で会話を繋ごうとする相手に若干ワンテンポ遅れを取りながらも、
「人偏に数字の二で、仁だよ」
と説明してやった。そんなに難しい漢字じゃないよ、と頬を掻くと、
「んー、そっか。 にんべんかー」
わかったような、わからないようなといった調子で徹はニコニコと首を傾げている。
(「徹」が書けるのに人偏はわからないのか…)
内心苦笑いをしつつ「はい、これ」と言って拾ったものを差し出すと、徹の顔にパッと喜びの色が広がった。そして「さんきゅー!」と言いながら、仁に向かって飛びついてきた。
「!? …ちょっと、なにっ」
咄嗟の行動に、仁はぎょっと身を強張らせるも、次の瞬間には、相手は元居た位置に飛びのいていて、紙飛行機のようなものを片手にはははっと笑っていた。
「ありがとう、ってしるし!」
(………なんなんだ、こいつは)
予測不能な行動をとる目の前の相手に、今更ながら若干警戒し始めた仁のことなど梅雨知らず、徹は急に真面目な表情で「それにしても、わっかんねーなー」と腕組みをし始めた。次はなんだよ、と若干戸惑いながらも、「なにが?」と聞いてみた。
「父ちゃんに紙ヒコーキの作り方教えてもらったのに、上手く飛ばないんだ」
「紙飛行機、って…それのこと?」
「もちろん!」
ちらり、相手の手元のそれを見やると、徹は、我が宝を見よ! と言わんばかりに両手でそれを頭上に掲げ、今日一番の笑顔をこちらに向けてきた。まさか、と思いながらも、仁は脳に浮かんだ質問をぶつけてみる。
「……さっき外で飛ばしてたのって、それ?」
「なんだ、ジン。 見てたのか?」
きょとん、とした表情の徹を前に、仁はおいマジか。と、文字通り頭を抱えた。記憶が正しければ、外は雨で、しかも彼は紙飛行機を前にではなく空に向かって投げていたはずだ。
前にではなく、空に。 雨の中で、だ!
更に悪いことに、見たところ彼は壊滅的に不器用なのか、紙飛行機は左右のバランスががたがたで、これでは晴天だろうが前方に投げようが、すぐにバランスを崩して落ちてしまうだろうことがいとも簡単に予測できた。
さて、この事実をどう伝えよう…。
「ジン?」
熱のためだけではない頭の痛みに眉間に皺を寄せながら、仁は小さくため息をつくとこう言った。
「……紙、持ってる? 新しいやつ」
「紙? あるぜ!」
そういってポケットから取り出された紙は、角が不揃いに四つ折りにされた小さな赤い折り紙だった。理想としてはコピー用紙くらいの皺ひとつないものがいいのだが、この際細かいことは致し方あるまい。濡れていないだけでもよしとしよう。
「おれが折り方教えるから、ちゃんと見てて」
売店の傍にある硬めのソファーをテーブル代わりに、二人は額を寄せ合って作業を開始した。仁は折り紙の皺を丁寧に伸ばしながら、徹に問いかける。
「どうして、外なんかで練習してたんだ?」
「病院の中で飛ばしてたら木村さんに叱られた」
「木村さん?」
「看護師のにーちゃんだよ」
なるほど…そうだとしても、だ。
「外、雨降ってるじゃん」
「天気、関係なくね? 飛行機は雨でも雪でも嵐でも飛ぶぞ!」
「飛行機は鉄、紙は紙だろ…濡れたらよれよれになるじゃんか」
「あー! たしかに!」
「あと、飛行機は雪と嵐の中では飛ばないよ」
「えー、まじで? ジンはなんでも知ってるなあ。 すげーなあ!」
(…こいつと話していると、どうも調子が狂う)
手元できちっ、きちっと折り進めながら、それでも、徹の天然さは煩わしいものではなく、むしろ清々しいくらいに素直で、仁はある種の心地よさを感じていた。
「今度飛ばすときは場所と天気を選べよ」
「うん、わかった!」
「あと、折る時は左右均等! きれいにな」
「サユーキントー? ってなに? 人の名前?」
「右と左を、同じ形になるように折れってこと」
「同じ形」
「角をそろえるんだよ、角」
「角ー」
「ちゃんとわかってるのか?」
「んー、多分大丈夫! ジンみたいに上手にはできないかもしんないけど」
へへへー、と隣で徹が笑う。あまり褒められることに慣れていない仁は、彼の何気ない言葉にむずがゆさを感じつつ、仕上がった飛行機をずいっと徹の胸に押し付けた。
「……はい。できた」
「おおっ!? なんだこれ、すっげー! ジェット機みたい!」
父ちゃんのと全然ちげー! とげらげら笑う徹は、小さくも美しく完成されたそれをへー、とか、ほー、とか言いながらひとしきり観察したあと、
「ジンの手は、魔法の手だな!」
と言って、まっすぐに仁の瞳を見つめた。
魔法の手。
徹の言葉に、じわじわと頬に熱が集中する。しかしそれは、不調時にだるさをもたらす類のものではなかった。胸のあたりに温かい水流生まれたみたいに、鼓動がドキドキと早鐘を打つ。
「嬉しい」と思った。「ありがとう」を伝えたかった。だけど、仁の意志に反して、そのどちらも上手く口から出てこなかった。
(どうしよう、どう言おう…)
仁がまごついていると、徹はすくっと立ち上がって、こう言った。
「今、飛ばしてみようぜ!」
「…………は?」
一瞬反応が遅れた仁を待たず、徹は少し離れた廊下へと走り「いくぞー、ジン!」と叫ぶや否や、紙飛行機を握る手を勢いよくこちらに向かって振りかぶった。
「わ、バカ、ここ病院内──」
そんな大声出したら叱られるだろ! と叫び返したくなるのをグッとこらえ、宙をすいっと切って飛んでくる赤い飛行機を、胸に受け止める。あと一歩反応が遅れていたら、すぐ側のベンチでうたた寝しているおじいさんに接触していたことだろう。考えると肝が冷えた。
「はははっ、ナイスキャッチー!」
とんでもなく自分に素直で、どこまでもまっすぐな笑顔に、ふくらんだ怒りが急速にしぼむ。本当に、なんなんだ、こいつは。
気おされっぱなしな自分がちょっぴり悔しくて、仁は立ち上がると予告もなしに徹めがけて赤い飛行機を投げ返した。
「これでもくらえっ」
「お? やるな、ジン」
勢いづいた飛行機は、ジャンピングキャッチを試みた徹の指先を掠め、遠くの方にするすると落ちていく。
飛行機を追って他を見ず、パタパタと廊下を駆けていたのが祟り、刹那、徹は前方を歩いていた看護師の男性にぶつかった。
「いってえーー!」
徹はしりもちをつき、男は持っていたカルテの束を床に落とす。
「あいたたた…って、徹くんじゃないか! 院内では走ったらダメって言ったろう!」
「げっ、木村さんだ!」
側に転がる飛行機を拾い上げると、徹はその場からサッと立ち上がり
「じゃ、またなー! ジン」
ぶんぶんとこちらに手を振り、その場から逃げるように走っていく。
「いや、だから前見ろよ! 危ないって」
仁は院内であることも忘れて、久方ぶりに大声を張り上げた。
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