恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか4
◇◆◇◆◇◆
悶々と悩むうちにいつの間にか全クラス発表が終わったようで、委員長から次回の日程と時間が告知された。
日時をメモした忠は、解散の声と同時に席を立ち、荷物を取りに自分のクラスへ足を向けた。
途中から時間の経過を意識していなかったが、廊下の窓からはすでに夕日が差し込んでいる。
窓の外から聞こえるイッチニーサンシー、という掛け声はサッカー部のものだろう。部活を終える前に最後にグラウンド三周するのがルーティーンなのだ。
部活は参加できなかったけれど自主練だけしようかな、と思いながらA組に戻る途中、ちょうどC組の前の廊下で人影を見つけた。
ここ最近の忠の悩みの原因である麻耶が佇んでいる。
肩までの短い黒髪も、手すりに置かれた手も、少しダボついた制服も、小さな身体ごとじんわりと夕日に染まっていた。
やわらかい橙色に照らされた憂いを含んだ彼女の横顔に、何故だか忠は息をとめて麻
耶を見つめた。
廊下には二人以外誰もいないようで静まり返っている。
部活中の生徒達のざわめきや楽器の音がやけに遠い。
反対に自身の鼓動はどくどくと煩く主張しているし、息遣いや、時折ぱちりぱちりと瞬きをする音さえ敏感に拾い上げている。
こんなに煩いと彼女にも聞こえているのでは、とぼんやり思っていると、聞きなれた一際大きな声が静寂を破った。
「後一周!最後まで声出せー!イチニーサンシッ」
部長の声だ。
声が近いから、調度この窓の下を走っているのかもしれない。
急に夢から覚め現実に戻った気分でいると、今まで身動きせず黄昏れていた麻耶がきゅっと手すりを掴み、僅かに身を乗り出した。
不安や切なさ、そしてそれだけではない何か複雑な感情が綯い交ぜになった顔で、窓の下の光景を眺めている。
彼女のその表情は忠に既視感をうませた。
いつだったかと記憶を巡らせ、そして、嗚呼と嘆息した。
兼盛といた時、この顔をしていた。
そうか、彼女も兼盛のことが。
そして僕も。
きっと心のどこかでは気付いていた。
それでも向き合いたくなかったから違和感を頭の隅へやって、彼女は最近何に悩んでいるのだろうなんて知らないふりをしていたのだ。
だからとうとう気付かざるを得なくなった今、驚きよりも、納得感とじくじくした痛みが忠を襲っている。
両足に力を込めてきちんと立てるように意識し、ふー、とゆっくり息を吐き出した。
治まらない痛みに耐えるように、ワイシャツの左胸のあたりをくしゃりと掴んで前を見た。
掛け声が遠ざかっていても、相変わらず麻耶は外を眺めている。
しかし先ほどまでの夕日に溶けていきそうな雰囲気は霧散し、きっとした表情で両手でぱちんと頬を叩き、気合を入れた。
ふぅ、と一呼吸すると足元に置いてあった鞄を手に取った後、たたたっと軽い足音を立てて忠とは反対方向へかけて行った。
物陰に隠れていたわけでもないのに、近くに立っていた僕に全く気付いていなかったな。
そんな事実ひとつでさえも、ナイフで刺されたような痛みを感じる。
こんな痛み、はやくなくしてしまえればいいのに。
しかしそれは無理なことだと、忠はわかっている。
彼女への想いが消えなければ、痛みがなくなることはない。だがついさっき自覚した想いが、成就しないからといってすぐに0になることはありえない。
麻耶にも、兼盛にも、誰にも知られてはいけないこの気持ちを、たった一人でどう対処すればいいのだろう。
何もない真っ暗な宇宙に投げ出されたかのような気持ちでいる忠に、「ねぇ」と感情を感じさせない声音が飛んできた。
振り向くと麻耶の友人である香奈が腕を組んで立っていた。
普段の勝気な表情とは裏腹に、休憩時間一人で後輩のクラスに行った時のような、内輪ネタで盛り上がる委員会に代理で出席したような、形容しがたい顔で忠に何かを言おうとしていた。
んー、と数秒言い淀んだ後に、あのさぁとどこか緊張を孕ませ語りかけてきた。
「麻耶はさぁ、あんたの友達が好きなんだよね」
「…そうなんだ」
「…彼もあの子のこと好きだよね」
「…なんで?」
なんでそう思ったのか。なんでそんな問いかけを自分にするのか。
色んな疑問を含んだ忠の返しに、前者の意味で捉えた香奈は羅列した。
「最近よくうちのクラスくるし、休憩時間はわざわざうちのクラス付近で騒いでるし、あの子への構い方とか見たらね。それに…彼には女友達もファンもたくさんいるのに、名前で呼んでるのってあの子だけでしょ」
「…バレバレだったんだ」
忠の言葉に香奈は、まぁねと肩をすくめた。
忠達の周りの男子は全く気付いた様子がなかったのだが、もしかしたら女子達は香奈同様気付いていたのだろうか。
それで、と続きを切り出した香奈は、先ほどまでぽんぽんと発言していたのに、また言葉を途切らせた。
ふわふわした茶髪を指でくるくると巻きながら、目線を落としてぼそぼそと口を開いた。
「あんたは…。あんたも」
「僕はそういうのじゃない」
香奈が言い切る前に、忠は口を挟んだ。
その返事に香奈はぱっと顔をあげて、忠を見つめた。
「…そっか。なら、よかった」
「うん」
ちゃんとなんでもない風な顔ができているだろうか。
おそらく、できていないのだろうな。
目の前にいる香奈の顔は明るいとは言い難く、無理やりよかったなんて感想を捻り出したのが目に見えてわかる。
忠は麻耶に対してまさに「そういう」感情を持っているのだと、先ほど自覚したばかりだ。同時に、それが実らないのだという現実も悟ったばかりである。
なんでもない風になんてできるわけがない。
麻耶の気持ちが兼盛にあることを把握している香奈は、おそらく二人を応援している立場だ。たとえ彼女がそういった立場でなくとも、近い将来二人が結ばれる日がくる状況で、自身の気持ちを馬鹿正直に吐露したくないし、すべきではない。
だから、表情と言葉が全く伴っていなくとも、否定するたびに息苦しくなっても「そういうのじゃない」と忠は言い通すしかないのだ。
「…窓の外を眺めていたあの子を見ていたあんたに、声かけなきゃと思って。何が言いたいのかまとまってなくて…てか今もそうなんだけど」
牽制、というよりも、忠告や同情に近かったのだろうな、と所在なさげな香奈に忠は「気にしないでいい」と告げた。
声をかけたことも、自身の気持ちも、気にしないでほしい。
それよりも今は放っておいてほしくて、忠は最後の力を振り絞って香奈に問いかけた。
「ところで、C組に何か用だったのか」
「鞄取りに来ただけ。別の所属だけど、私もあの子も今日委員会だったから」
香奈は、ほらと鞄を胸まで持ち上げてみせ、彼の心情を察したのか別れの挨拶を口にした。
「えっと、それじゃあ…バイバイ」
「…じゃあな」
最後まで顔を曇らせたまま、背を向けた香奈の姿が完全に消えたのを確認した忠は、深く息を溢して、C組の教室の壁に沿ってずるずるとしゃがみこんだ。
兼盛に何もかも敵わないのは、昔からだ。
中学校のサッカー部。
クラスでの様子。彼の周囲にいる多くの友人達。
授業中、教師との軽いやりとり。
そして、ソフトボール部の、菓子パンの子。
兼盛に出会ってからの日々を思い出して、忠は膝に額をぶつけながらうぅぅと唸った。
もし、もっと早くあの子への気持ちがわかっていたら。
兼盛があの子にちょっかいを出すとき、もっと自分も積極的に加わっていたら。
朝のコンビニで声をかけて兼盛より先に仲良くなっていたら。
たらればはたくさんあるけれども、きっとそのどれを改善しても結果は同じだっただろう。
兼盛には勝てない。
だから、せめてあの子への想いを抱くことくらいはさせてほしかった。
二人の気持ちを知っていたからこそ、誰にも知られないよう密かに抱いていようとした想いは、しかしはやくも香奈に気付かれてしまった。
彼女自身どのような声をかけていいのか迷っていたようだが、おそらく忠や二人を心配しての行動だったに違いない。
ともあれ彼女がどのような意図で声をかけてきたにしろ、第三者である香奈に気持ちがばれてしまった事実はかわらない。すなわち、香奈だけではなくその他の友人や同級生達、もしくは当事者である兼盛達にも自身の想いを悟られる可能性がある。それだけは何としても阻止しなくてはいけない。
ポーカーフェイスが装えない以上、あの子への想いを一刻も早く捨て去ることが正解だ。
捨ててしまえば、このずきんずきんと痛む心臓も、つんと目の奥が熱くなることもなくなる。
数式によって導かれる正しい答えがひとつであるのと同様に、するべきことは明快だ。十分理解している。
忠はすん、と鼻を鳴らし力なく顔をあげて窓の外を眺めた。
向かい側の窓から見える夕日は、さきほどより少し沈んでいた。
「綺麗だったなぁ…」
するりと言葉が口から零れ落ちてから、夕日に染まる彼女の姿がとてつもなく綺麗だったから目が離せなかったのだなと、忠は今更気付いた。
どんなに忘れようとしても、きっと夕日をみるたびに、あの子のことを思っては堂々巡りをしているのだろうなぁ。そうして、ずっと心の内であの子への恋の火が燃え続けているんだ。
瞼を閉じてもなお、橙色に染まりながら窓の外を眺めていた麻耶の姿が、脳裏に焼きついて離れない。
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