第72話 犬の獣人、考え中
もう何度目か分からず割と食傷気味な土と砂を舐めさせてもらった僕は、自分を蹴り飛ばしたベルが差し出した手をありがたく取らせてもらいます。
「大丈夫ですか?」
「聞く必要あるそれ?」
『これからは悪戯に痛めつけはしません』……そう言われてからまた特訓を重ねました。お天道様もだいぶ動いたように見えます。それは特訓に手を抜くというわけではありませんでした。確かに寸止めが増えたり、今の攻撃はどう避けるのが正解だったか……みたいな講義が合間にちゃんと挟まるようにはなりましたが、それでも僕が未だに避けられないのは事実でした。
「まさか真面目に教えているのにここまでルアン様が動けないとは私も思いませんでした」
「正直過ぎるご意見ありがとう」
パッと見、普段の煽りと変わりませんが長年付き合っている僕にはその声の平坦さからマジで驚いているのだと分かります。悪い意味で感心している、といったところ。いやされても困るんですけどね。
「まぁ、未だに一回も避けれてないのは事実だけどね……」
「ルアン様がちゃんと現実と向き合える方で安心しました」
「特訓始めてから僕に求めるライン低くなってない? 大丈夫?」
「ルアン様の体よりは」
「だろうね」
もうどこを蹴られてどこを殴られてどこを受け身に失敗して痛めたのか分からないくらいには全身が痛んでいました。我ながらまだ立ち上がれるのが不思議なくらいです。額の血は拭いましたが、鼻血は拭っても拭っても垂れるので放置していたら固まりました。あまりにもひどい生傷にはそこら辺の葉っぱ(ベルに拠れば薬草とのこと)を張って凌いでいる状況です。……サバイバル生活でもしてんのかな僕。少し歩いたら家あるんですけどね。
「でもほら、せっかくベルの気が変わったんだし」
「……だとしても休憩しましょう」
ベルはやれやれ、と肩をすくめてその場に腰を下ろしました。
ハアトと僕と、三人で暮らすことを僕に諦めさせるため修行を切り出したベルでしたが、ついに『ちゃんと避けられるための修行をする』と言ってくれてからは、僕も気力が回復していました。体の痛みはもう鈍ってきましたから、あとは気力! と空を仰いで仁王立ちします。
「ルアン様座らないんですか?」
「今座ったら二度と立てなくなると思うから」
「左様ですか」
今のは本音です。次の一撃で膝がついたら今日の特訓は終わりだなって感じがしてます。帰りはベルの背中だな……。
しかしまぁ、休憩と教官が申した以上は休憩な訳で、僕は痛みに耐えながら仁王立ちを続けます。そしてついでに、軽めに核心にタッチしてみます。指先だけ。先っちょだけだから。
「じゃあベルはハアトと僕と一緒に暮らしてくれるってこと?」
「今の『じゃあ』はどこから出てきたんですか」
「えっ……『本当に自衛をして頂きますので』に対する回答」
「話題届くの遅過ぎませんか」
もう数刻立ちますけれど、とすごく嫌な顔をされます。話題の蒸し返しはむしろ女性の得意分野だと思うのですが、やはり以前から思っていたように僕の方が女性らしくてベルの方が男性らしいのでしょうか。いやこの話題は長くなるのでやめましょう。男性は話題が逸れることを嫌います。
「で、どうなの」
「どうなの……ですか」
ベルは苦い顔をしながら考え込むような仕草を見せます。
そもそもこの特訓自体、ハアトとの暮らしをベルに認めさせるためのものでした。そしてその特訓を肯定した以上、僕としてはベルが僕の描く未来像であるところの『仲良く三人で暮らす』を認めてくれた――という解釈も出来るわけで。
そこさえハッキリしてくれれば、僕としては今すぐにでも三人での暮らしを再開させたいのです。というか本をただせばこっちの方がよっぽど重要な訳で。こちらは目的ですが特訓は手段。なので僕は今このタイミングで、ベルにそれを問い質す必要がありました。
まだ島を出ていくつもりなのか。
三人で一緒にくらしてくれるのか。
「……そうですね」
しばらく考えて、そう切り出した彼女の声は比較的落ち着いたものでした。少なくとも、最近のベルらしい激したものではなく、いつもの彼女らしい理知的な声色。
「正直な話をするなら……『まだわからない』が答えになります」
「まだ……わからない?」
「えぇ」
ベルはこちらを見上げながら、確かに頷きました。曖昧な答えながら、その視線は凛々しく僕を見通しています。
「ルアン様も言われた通り、島を出るのは最終手段です。せっかくご厚意で万全になったイルエルでの暮らしを捨てることになりますし、そもそも海に出たからと言って死なないとも限りません。ルアン様を乗せる訳ですし」
「水難の王子で悪うございました……」
水辺に寄れば不可思議な力によって必ず流されてしまう僕ですから、大海原に漕ぎ出せば最悪そのまま藻屑とお友達です。
ベルはそんな僕を軽く鼻で笑うと、しかし一転、鋼のように堅く冷たい言葉を並べます。
「ですがドラゴンが相手である以上、常に最終手段の可能性があります。……ルアン様は感覚が麻痺しておられるかもしれませんが」
「……まぁ、そこは否定できない」
我々人類に慣れ親しんだ猫が実は地球で最も危険な暴食生命体だ、と言われても危機感を覚えないように、短いながらだいぶ濃い時間を過ごした僕からしてみればハアトは既に出会った当初ほど恐ろしい存在ではありませんでした。生物として本能的な恐れこそは感じますが、全身の痛みや巣穴の悪臭と同じように「そういうものだ」と思ってしまっているというか。スリリングなアトラクションに乗れば多少のスリルは楽しめてしまう、みたいなそういうことです。いや何の話だって感じですが。
「いいですか、ルアン様」
しかしそんな僕に、ベルは警鐘を鳴らします。
「ドラゴンは一匹で一国を滅ぼせる存在です。そうでなくても、危険な存在であることは……横たわるマリアさんを見たルアン様ならお忘れではないはず」
つい先日見て、僕を後悔で打ちのめした光景がありありと浮かんできて、僕は拳を握り締めます。僕らの事情には何も関係なくて、邪気もなく、むしろ善意だけだったマリアさんの惨状。責任が誰なのかは別にして、間違いなくそれはハアトの為した業でした。
「ドラゴンと――ハアトと暮らすということは、その危険を常に背負うということです。ここまでの特訓でボロボロになられたルアン様ですが、いざ暮らせばこれ以上にひどいかもしれない。それでなくても、です。彼女は私たちの生活を何度脅かしましたか?」
問い詰めるような口調で、ベルはハアトの人間の範疇には収まらない行いを次々と挙げていきます。巣穴への拉致監禁。我が家の半壊。トイレの悪臭。畑に全裸で出没。変身に次ぐ変身での悪戯。マリアさんへの危害。居間の破壊。ベルへの暴言。……そしてベルは知りませんが、僕らの船の襲撃、撃沈。そして僕の溺死未遂。
ベルが言外に言わんとしていることはもう十分に伝わっていました。それこそマリアさんの一件からもう何度も、実際の言葉として聞きましたから。未だにベルがその思いを胸に抱えていることを改めて痛感して、僕は俯きます。
「……………………ただ」
長い沈黙を、破って。
ベルが零した言葉に僕が顔を上げれば、彼女は少しだけ眉を下げて、でも耳はぴんと立てながらこちらを力強く見つめていました。
「これはあくまで、私の感情ですが」
「……うん」
前置きに頷けば――不意に、ベルの表情がどことなく柔らかくなったような気がしました。
「今まで他人の意見に流されて、同意して、身を任せるばかりだったルアン様が……そんなルアンが、誰とも違う自分だけの意見を貫こうとしていること、私は嬉しい」
「ベル…………」
「もちろん甘い意見です。理想です。現にルアン様はボロボロになるばかりで、ハアトを御すことも叶わず、私の蹴りを避けることさえ叶っていません」
「うっ」
お前は口ばっかりだ、と突き付けられて期待に輝いた表情が曇って呻きます。口ばかりが達者なのは僕の悪いところだと常々自覚しているだけに。
たじろいだ僕をベルは愉しそうに眺めると、鋭い眼光で僕の胸の方を貫きながら続けました。
「ですが……私は、ルアン様を信じてみたい」
それはいつものベルにしては珍しい、感情からくる言葉でした。
「誰の意見に同調したわけでもなく、自分で見つけられた理想を掲げるルアン様について行ってみたい」
イルエルに来てからも僕は流されていた……と言われれば、その通りかもしれません。イルエル居住は村長さんとカルロスさんの。婚約はハアトの。鍛冶屋に鍬を持っていったのはベルの。友達になるのはジョーくんの。働くのはカルロスさんとアドルフさんの。結婚式はハアトと牧師さんの。
でも、『三人で仲良く暮らしたい』は。
「これは理性ではなく、好奇心です。従者としての。或いは……成長した弟を見る、姉としての。…………だから」
ベルはそこまでの自分の話を自分の中で改めて整理すると、再び僕の質問である『ベルはハアトと僕と一緒に暮らしてくれるってこと?』に答えました。
「わかりません。私自身、まだ答えが出せないので。理性と自身に従って、ドラゴンを避けるべきか。或いは……ルアン様を信じて、これからの未来を考えるべきか」
自身の掌を開いて眺めながら、ベルはそうつらつらと語ると、こう締めくくりました。
「ですので、考えさせてください。まだ答えが出ないので、これから時間をかけて考えることにします。答えが出たら申し上げますので」
なるほど、思慮深いベルらしい落ち着いた回答だと思って僕は数度頷いてから……肝心な問題が全く何も解決してないことに気付き、慌てて問い直しました。
「……つまりどういうこと?」
確かにベルらしい回答ではありましたが、これではこれからどうしたらいいのか全く目算もクソもありません。一生特訓続けるわけにはいかないんですけれども。島を出るわけでもなく同居するわけでもなく三人が別居しながらそのまま過ごす、はある意味最悪のエンディングじゃないでしょうか。なにも結論が出ていないっていう意味で。
しかしベルはそんな僕の慌てる心境なんぞどこ吹く風。
「だから私には分からないと申したじゃないですか」
「ベルに分からなくて僕に分かる訳ないだろ」
「おやおや、それは残念でしたねぇ」
「こ、こいつ……! 牧師さんみたいな物言いしおって」
「おやおやおやおや」
「煽るんじゃないよ」
思えば僕は特訓と称して好き放題暴行を加えられているわけで、その上こんな微妙な感じになってしまえばいよいよこれはやり返したくなるというものです。まぁやり返せば手痛いカウンターが待っているのでできないんですけどね! 僕の最弱!
ベルはぐぬぬと唸ることしかできない僕を尻目に伸びをしながら「ただ」とまた逆説で繋ぎました。逆説ばっかりだなこの犬の獣人。
「ただ、考えている間ずっと牧師さんたちにお世話になるわけにはいきませんから、私は家に帰ってくるつもりです」
「…………んん? それってまさか」
短いベルの言葉に、一つの可能性を感じた僕がハッと顔を上げると、そこには犬の獣人の、美しい青黒い毛並みがあるばかりでした。
「私たちの家に、私が戻るのは当然のことですが」
私たちの家。その言葉が含んでいる、ベルの寛容さに気付いた僕は同時にこれからどうしたら良いか――いや、『どうしていいか』を悟って礼を言わずにはいられませんでした。
「あっ、ありがとうベル!」
「礼を言われる覚えはありません。……それよりルアン様、そろそろ長い休憩は終わりです。特訓に戻りましょう」
僕とは対照的にまさにクールそのものを貫く彼女の長い尻尾が上向きに風に揺れます。僕は彼女の出してくれた答えに感謝しながら、再び教官である彼女と向き合うのでした。
……まぁ、数秒後には土下座の姿勢になっていたのですが。
「避ける気あります?」
「あるよ……あるけどさ……」
ベルは色々考えた上で、変わってくれたと言うのに……僕の特訓に全く成果が見えないことに僕は立ち上がれなくなっていました。いえ、マジな話をするなら膝と腰がもう立てないって言うので立てないんですけれど。
「ベル、おぶって……」
「ルアン・シクサ・ナシオン、おいくつですか」
「この前16になりました……」
「情けないとは」
「思ってたらやってられないよね」
王子様ではないので恥も外聞もありません。嘘です。恥と外聞はありますが幸いなことにこの特訓は秘密なので関係ありません。
僕はベルと会話しているのに地面だけを眺めつつ、ついでに思い付きを口走ります。
「……ここまで避けられないならいっそ受ければいいのでは」
「ハアトの一撃を?」
「そ、そう。我ながら超人的な耐久力だと思うんだけど」
「ルアン様ご存じですか」
「なにかな」
「以前衛兵に聞きましたが」
衛兵、という言葉を聞いてベルの話そうとする内容がなんとなく察せられましたが、次に彼女の口から出た言葉でどの衛兵が言っていたのかまで僕は鮮明に思い出すことができました。
「即死攻撃に防御力は関係ないそうですよ」
「らしいね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます