第61話 牧師、皮肉を言う

 気が付けば僕の体は暴風に巻き上げられていました。

 最後の瞬間、瞼に焼き付いたのはこっちをまっすぐ見つめるハアトの表情。怒っているような、悲しんでいるような、或いはもう諦めてしまったような――難しい、叶うことならもう二度と見たくない表情でした。

 咆哮と共に突き抜けた暴風は地上まで一気に吹き上がり、僕を大地に叩き付けました。勢いのままに転がって木に激突、ようやく止まります。度重なる衝撃で立ち上がるのにも呻き声が漏れますが、それも関係ありません。


「ぐぁ……っ! ハアト……っ!」


 半ば転がるように、這いずるように戻ろうとしますが岩壁は閉じた後。僕は既にただの山肌になった岩壁を叩いて呼び掛けます。


「ちがっ、ハアト! ハアト……」


 返事はありません。

 せっかく。

 せっかく、ジョーくんにアドバイスも貰ってハアトだって案に乗ってくれて、光明が見えた気がしたんですが……僕がそれを、全て無駄にしてしまいました。僕に残ったのはもう、全身の傷と痛みだけでした。ハアトへの気力だけで岩壁に縋りついていた僕はそれすらもなくなって、悶絶しながら顔から倒れ込みます。砂埃の味が口の中に苦々しくて、最悪です。


「あぁ……くそ……!」


 悔しいのに拳を叩き付ける気力すらありませんでした。

 何が悪かったか――なんて、考えるまでもありませんでした。

 『僕がハアトを触っても大丈夫なようにする』。

 この案しか浮かばなかったんです。そしてそれが僕は唯一の突破口だと思っていました。もちろん、ハアトに多大な譲歩をお願いすることは大前提でした。代わりに僕には死の可能性もある危険があったので、それでおあいこ、と考えていたのですが……浅かったんでしょう。僕はハアトの抱く『不快感』や『不信感』まで想定できなかった。……仮にも夫なのに。

 ただ、それはあくまで過程であって。

 僕がハアトの信用を失った最大の理由はそこじゃなくて。


「もしかして……ルアンさま、ハアトのこときらいなの……?」


 昨日の問いかけと同じように、ハアトの言葉が頭の中で痛いくらい反響します。言った瞬間の彼女の色んな感情が入り混じった表情も張り付き続けていて。


「……僕は……」


 ただ、『違う』と言えば良かっただけなのに。言葉の上だけでも、それこそ世の夫たちがよくやるように冗談でも否定したら良かったのに。


「くそ……何が口だけは達者だよ……」


 力が強いわけではなく世間的な立場が保証されているわけでもない僕にはもうこれしか取り柄がなかったのに、それすらも満足にできませんでした。

 そうです。

 しなかったではなく、できなかった。

 昨日の夜に抱いてしまった疑念。僕は言わばハアトに流されてしまった形で夫婦になったわけです。だけどそんなハアトを僕は本当に大切に思っているんでしょうか。もっと簡単な言い方をするなら……僕はハアトのことが好きなんでしょうか。

 その疑問を抱えていて、まだ答えが出せていないところにハアトのあの言葉。……僕は、何も言えませんでした。


「僕は……僕のせいで……っ」


 ハアトがベルと仲直りしてくれること。三人でまた仲良く暮らすこと。その架け橋に僕がなるつもりだったのに、その肝心の僕がハアトに嫌われてしまった。信用をなくしてしまった。

 振り出しどころか、マイナスの結果です。


「これから……」


 これからどうしたらいいんだろう。

 いや、そもそも『これから』なんてあるんだろうか。

 仮に元の生活に戻ったとしても、ハアトのことを好きじゃないかもしれない僕が、これからを考えられるんでしょうか。

 悩みはどろどろに溶けて濁り、全身の痛みからの逃避を体が訴え、その悪循環の渦に呑まれるようにして――僕はいつしか、意識を手放していました。





 まず気付いたのは布団の柔らかい感触でした。シーツの滑るような手触りと、背中に感じる山積みの藁の感じ。ここがどこかと思いながら目を開けば、橙色の夕日が染める自室でした。間違いありません、僕の家の寝室です。……いや、でも僕は山の中でぶっ倒れたはずで……どうやって帰ってきたんでしょうか。


「おやおや、気が付きましたか。具合はどうです?」


 混濁する記憶にもやもやを抱えていると、隣から不意に男性の声。見てみれば、そこには僕を傍らで見守る牧師さんの姿がありました。


「牧師さん……!? なんでうちに……いってて」


 予期しない人物の登場に慌てて起き上がろうとしたのですが、少し動いただけで全身を突き刺されるような痛みが走り、首しか起こせず固まってしまいます。


「まだ寝ててください。貴方全身すごいことになってたんですから」

「全身……?」


 牧師さんになだめられたので起き上がることは一旦諦め、しかしどうなってるのかと自分の体を見回してなるほど。あんまりじろじろは見たくない擦過傷とか青痣とか恐らくひどい生傷だったのであろう場所に巻かれた布とか、確かにすごいことになっていました。

 再び横になって天井を眺めて、呻きながら寝返りをうち牧師さんに尋ねようとしたのですが、牧師さんは笑いながら頷きました。


「ここまでの経緯、ですよね」

「……お察しの通りです」


 相変わらずこの人は話が早くて助かります。

 寝起きだった頭は痛覚によって刺激され多少冴えてきました。同時に今までのことを思い出します。僕はハアトに地上に叩き出されて、そのまま気を失ってしまったはず。猪や熊の巣ではない……ということは、誰かが見つけてくれたんでしょうか?

 そんな疑問の答えを教えてくれるように、牧師さんは続けました。


「それは私より見つけた本人に聞いた方が良いでしょうね」


 いつもの胡散臭い言い回しです。無駄にもったいぶった牧師さんは椅子に座ったまま軽く振り返り「ルアンさん起きましたよ」と居間の方に告げました。


「本当か!?」


 現れたのはジョーくんでした。彼は僕が起きているのを見つけると本当に安心したように胸を撫で下ろし、にへらっと笑顔を浮かべました。


「良かった、無事だったかルン坊……!」

「お陰様で。……色々迷惑かけて本当にごめん」


 さっきの牧師さんの口ぶりから察するに、僕を見つけてくれたのはきっとジョーくんなのでしょう。それに居間の方から出てきたということは、僕がお願いした居間の補修もまだやってくれていると見えます。いくらジョーくんが気前の良いやつだからと言ってもそこまでやってもらうとさすがに僕の気が引けます。


「じゃあ、えっと……山の中で倒れてた僕をジョーくんが見つけてくれたってこと?」

「いや、本当は俺じゃなくてさ」


 探しに行こうとしたのは確かに俺なんだけど、と前置きしてからジョーくんは説明してくれました。


「見つけたのは一緒に行ってたカルロスなんだよ」

「カルロスさん……!?」


 予想外の二人目に僕は驚きました。

 どうやらジョーくんの話を聞くに、居間の補修のために少し素材を山に取りに行ったとのこと。そこでカルロスさんが倒れている僕を見つけて、連れ帰ってくれたとのことでした。全身の手当てもカルロスさんがしてくれたんだと言います。


「ルアンさんのことをカルロスはいたく気に入ってますからね」

「それは……」


 我ながら計画性もクソもなかったことを痛感すると共に、申し訳なさが募ってきます。……ここまで皆さんにしてもらったのに、僕は何の成果も得られずに戻ってきてしまいました。それどころか、マイナスです。


「でもそのカルロスさんは?」

「あれは帰りましたよ。本当は起きるまで居たかったようですけれどね」

「そう、ですか……」

「彼にも家族がありますし、それに傷だらけの体に彼のスキンシップはひどく響くでしょうからね」


 私が帰したようなものです、と牧師さんはにこやかに語ってくれました。しかし僕にはすぐに別の疑問が浮かびます。


「でも、そもそもどうしてカルロスさんも牧師さんもうちに……?」


 ジョーくんは僕が家の補修をお願いした手前、残ってくれているのはわかりましたがそれにカルロスさんや牧師さんが加わっているのが分かりませんでした。

 ジョーくんが応援として呼んだんだろうか、とか思っていると牧師さんは少し申し訳なさそうにしながら教えてくれます。


「実は今、ベルさんは教会にいるんです」


 言われてみれば、なるほどいう感じでした。

 問題の解決順的な意味で今はハアトにかかりきりですが、ベルも現状家出中の身です。彼女のことですからどこかに宿を借りてるだろうとは思っていましたが、教会なら納得でした。


「ベルさんから簡単にですが話は伺いました。ハアトさんと喧嘩をして、飛び出してきたと。……これは邪推なのですけれど、昨日の妻同士のお茶会で何かあったんですね?」

「いや、それは……!」


 ずいぶん遠いことのように思われる昨日の昼。僕がカルロスさんと牧師さん――つまり夫同士で飲み会をしていた裏で、妻同士のお茶会がこの家で行われていました。確かに事の発端はそれですが、ハアトがしてしまったことを悟られる訳にはいかなくて僕は否定します。牧師さんは申し訳なさそうに首を横に振りました。


「……詳しくは私も聞きませんでしたが、我々が少し強引過ぎましたね。申し訳ないです」


 事情を聞いた牧師さんとマリアさんは教会でベルを寝泊まりさせてくださっているそうで、ベルの面倒をマリアさんが見ている間にカルロスさんと牧師さんで僕の様子を見に来たとのことでした。

 そこまでの経緯を聞いて、僕の方こそ申し訳ない気分になります。


「すみません、ベルまでお世話になってしまって」

「いえいえ、教会はそもそもそういう役割もありますからね」


 染み入るような優しさが、今はむしろ辛いような気がしていると牧師さんは胸の十字架を指してみせながら、冗談めかしてこう言ってくれました。


「私も牧師ですから、悩みには相談に応じます。イルエル移住の先輩でもあります」

「頼りがいの化身みたいな感じですね」

「そうでしょう、そうでしょう。更に夫婦生活においても先輩です」


 夫婦生活においても先輩、と言われて不意にハアトの言葉と表情が思い出されました。痛覚を刺激しない痛みが胸を貫くような気がして、我ながら弱っているなと自嘲してみます。

 相談してみようか、なんて考えますがここで悩むのがカッコ悪い僕の悪いところなんでしょう。確かにハアトがドラゴンであることを巧妙に隠すのは頑張ればできるでしょう。しかし、既に相当お世話になってしまっているのにこれ以上頼ってしまうのは……と気が引けるのも事実でした。

 しかしそれは見透かされてしまったようで。


「ルアンさん」

「えっなんですかどうしたんですか」


 不意を突くような鋭い言葉に、顔を上げてみれば牧師さんが分かったような顔をしてこちらを見ていました。


「当てましょうか」

「急に何を」

「『これ以上相談にまで乗って貰ったら悪いな』とか考えてますね」


 なんだこの人。心が読めてんのか。

 僕が面食らっていると図星と見られたのか(見られるも何も図星ですが)、今度はジョーくんがかかってきます。


「おいおい、本当かルン坊?」

「いや、それは、その」


 しどろもどろでカッコ悪いことこの上ない。この状態で『違う』なんて言えば嘘だってことが猿でもわかります。猿でもわかるルアン・シクサ・ナシオンの動揺。

 ジョーくんはベッドに近寄ると、僕の肩を軽く叩きました。


「困った時にはお互い様、だ。それがイルエルのルールだぜ」

「ジョーくん……」

「それにルアンさん、私たちに今更何を遠慮することがあるんですか。既に貸し数えられないでしょう?」

「うっ……それもそうですけど」


 キツいところを突かれましたが、逆に言えば二人の言葉のおかげで楽になったような気もしました。

 そもそも、ハアトに出した答えだってジョーくんの後押しがあったから言いに行けた訳です。それに遡れば牧師さんの言うように僕らは助けて貰わなければ流れ着いた日に浜で飢え死にしててもおかしくなかったわけですから、敢えてここはふてぶてしくなってもいい……のかもしれません。


「そう、そうですね。そうかも」


 僕も何回か確認して、口を開くことにしました。


「牧師さん。一つ……結婚生活の先輩として、聞きたいことがあるんですけれど」

「いいですよ」


 牧師さんは軽く頷くと、同時に少し振り返ってジョーくんに今日はもう帰るように告げます。ジョーくんは残りたそうでしたが、牧師さんが


「あまり夫婦仲の問題というのは大勢に聞かれたくないですし。……それにジョーくん、まだ独り身じゃないですか」


と皮肉を言うと、帰りやすくなったのか一旦出直すといって家を後にしてくれました。……双方察する能力に長けていて、嬉しいやら申し訳ないやら。

 二人だけになると、牧師さんが先に確認をしてくれました。


「ルアンさん、腕は動きますか? 体は起こせます?」

「起こすなってさっき牧師さんが」

「あははは」


 確認してみるとなんとか起こせましたけれど。牧師さんはそれを確認すると少しキッチンの方へ離席して……しばらくすると、湯気のたつコップを二つ持って戻ってきました。


「温めた葡萄酒です。夜は冷えますからね」

「ありがとうございます」

「一つ貸しですよ」


 相変わらずな口ぶりのまま牧師さんは腰を下ろすと、改まりつつも軽い切り出し方でにこやかに始めてくれました。


「さて。……じゃあこれ飲みながら、お話聞きましょうか」

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