第60話 夫婦、決裂する

 我ながら極論だと思います。

 えぇ、イルエルに流れてくる前の、ハアトと出会う前の僕であったら思い付いてももう数日は悩むだろうくらいには極論です。しかしその極論を切ろうと思うくらいには、極限の状態なのかもしれませんでした。そもそもドラゴンが関わっている時点で尋常な状況ではないわけで。

 ベルは危険なハアトのいる島を出ると、そう言いました。

 彼女の発言はきっと、僕の身を案じてのことです。口にすることは滅多にありませんが、彼女はそういう人間です。

 であれば。

 『僕がハアトに触れても問題が無ければ大丈夫なのではないか』。それが僕の今導き出せた唯一の答えでした。我ながら頭がおかしいと思われても仕方ないな、という気がします。

 もちろん尋常な解決策ではありませんから、


「――むりだよ。むりだ」


 ハアトは僕を冷たく見下ろしながらそう告げました。

 背中が酷く痛むのでまだ立ち上がることは叶いませんので僕はそのまま、出来る限りの自信を表情に滲ませながら言い返してみます。


「確かに無理かも」


 自信を滲ませはしましたが、解答は尻込みです。我ながら情けないですが、それがルアン・シクサ・ナシオンのやり方です。


「じゃあなんで」

「無理かもしれないけど……無理だったら無理だったで、その時だよ」

「なにそれ」


 ベルが居たら「楽天的すぎる」と言われていたでしょうか。しかし、無理だったらその時というのは事実でした。これしか思いつかない以上、そうしてみるしかないんです。家だってトイレだって仕事だって畑だってそうしてきました。

 ハアトが冷たく見下ろすので、僕は苦笑いで激痛を誤魔化しながら(この調子では魔法による回復はまず見込めないでしょうし)、身振り手振りを交えて思い付いた策を口から放出します。


「ハアトが僕をぶっ飛ばさなきゃ僕もベルも島を出て行かないわけで」

「それはそっちのかってじゃん?」

「今は取り敢えず聞いてほしいなぁ」


 こちらの勝手なのは重々承知です。というか基本的にはハアトではなく僕ら側の都合なのですが、それはそれ。ハアトが一旦口を閉じてくれたので僕は続けます。


「だから僕がハアトに触っても大丈夫なようにする。どう?」

「どうやって?」

「それは……慣れる、とか?」


 咄嗟に思い付いた方法を提案してみると、ハアトは押し黙りました。黒い鱗の脈動が止まり、赤い瞳が僕をただ映し出します。

 しばらくの沈黙に、僕が言葉を継ごうとした――その刹那。

 轟音。

 気付けば、ハアトの尻尾がすぐ傍に突き刺さっていました。


「……っ!?」


 一瞬の、出来事。

 これだけ巨大な、それだけで大蛇と見間違うような尾が動いたことすら視認できなかったこと。そしてその攻城兵器の如き黒槍が岩壁をすぐ傍の刺し穿っている事実に、遅れて動揺と恐怖と驚愕が僕を襲います。


「ルアンさま、ほんとうにしんじゃうよ」


 ハアトの静かな宣告が降ってきて、僕は彼女を見上げました。その感情の読めない鱗の顔と先程の一撃に気圧されてしまいます。どういう意味かを問い質す必要はありませんでした。さすがの僕もその一言で全てを察します。


「ルアンさま、いっぱつでそれなんだよね」

「……情けないことにね」

「しにたいの?」

「死にたくは、ない」


 さすがの僕でも死にたかったらもっと効率的な方法を選ぶよ、と隣に刺さったままの尻尾に威圧感を覚えながら強がりました。

 この一撃の意味するところはつまり、『慣れるまで触るならいつかこういう反撃もあるぞ』という、端的に言えば脅しのようなものなのでしょう。なるほど、手で払ったのはハアトなりに加減してくれてた訳です。空恐ろしいですね。……僕はさすがに岩盤より脆いですし。


「まほうだってあるんだよ」


 そうハアトが呟くとほとんど同時に、僕の傍らの石ころが発火します。……なるほど、下手に触っていると魔法の危険性もあるらしいとのこと。はっはっは。ここまで脅されるといっそ現実味がないです。まぁ僕死ぬんでしょうけど。

 しかし死にたくないのは事実ですから、僕はハアトに聞き返します。


「じゃあ他に案あるの?」

「ないよ」

「僕にも残念ながらないんだよね」


 こうなってはまた堂々巡りです。打開する案がないならこうするしかないのです。ハアトもそれに呆れたのでしょう、大きく天井を仰いでから文句を吐き捨てます。


「でもルアンさまぜったいしぬよ」

「保証されたくないなぁ」


 苦笑いしか返せないです。ので適当な軽口を叩いてみます。


「でも、死んだら死んだでそれでいいんじゃない?」


 先程、唯一ハアトが提示してくれた案。『ルアンさましんじゃえばいいのでは』を、僕がハアトとの訓練中に死んだら副次的に実行したらいいのです。隙を生じぬ二段構え。なお穴だらけですが。


 ……我ながら、死を恐れなさすぎだとは思います。

 それは多分僕は幼い頃から水難でいつ来るか分からない死に慣れたというのとか、ハアトと一緒に居過ぎて現実感がないとかそういうのがあるのかもしれません。

 だからこそ、よりリアルな『ハアトと僕、ベル三人の決別』の方が怖いのでしょう。なんというか、僕らしい気もします。意外に思われるかもしれませんが、考え無しなんですよ。

 僕の不退転の馬鹿を知ったのでしょう、ハアトは真っ直ぐ僕を見つめるだけ見つめると、


「まぁしんでもいいや」


 と普段ならひどく怖く聞こえる呟きを残してくれました。


「辛辣だね」

「もうしにたがりのルアンさまにはあきれたの」

「不甲斐ない夫で申し訳ない」


 今回ばかりは話が進むので嬉しいやらそうじゃないやら。ともかく、僕としても死にそうになったら考えるとしましょう。アクションはこちらから起こすわけですし。

 しかし本題はここからでした。


「じゃあもうひとつ」


 ここまでは、あくまでハアトが僕のことを心配してくれていた、言わばお世辞と言うかお節介で。

 次に切り出した問いかけこそが、ドラゴンとしての一番のものでした。


「ふこうへいだよ」


 それは、通い妻制度を決めた時と同じ台詞でした。


「ハアトがゆずるばっかりだよ、それは。かよいづまのときもそうだったけど……でも、こんかいはわけがちがうよ」


 普段の彼女からは考えられないくらいに論理的な言い方でした。熱さとか勢いとか感情じゃなくて、そこには冷たいものが感じられました。


「ルアンさま」


 ハアトはドラゴンの姿のまま、僕に目線を合わせず高みから見透かすような視線で諭しました。


「『そういういきものだからどうしようもないこと』ってあるんだよね? ルアンさまはそれをまげろっていってる」

「……うん」


 そうです。この解決策は死ぬ死なないの僕と同じくらい、ハアト自身にも無理を強いるものでした。

 ハアトにはいつ話したのか覚えていませんが、『どうしようもないこと』というのはあります。変えろと言われて変えられない部分。僕らが睡眠と食事を絶てないように、「呼吸をするな」と言われても無茶なように――ドラゴンが触られるのを極端に嫌うように。

 この解決策は、その無茶を通せというものでした。


「僕は、ハアトを信頼してる」


 返す言葉が薄っぺらく聞こえるのは、自分でもそれを重々承知しているからでした。僕の死は一瞬でしょうが、彼女はそれ以上の不快感を負うのですから。


「僕ら人間が限定的にならご飯を我慢できるのと同じで、高次の存在ならその譲歩が出来ると思った」


 相手がドラゴンだから。僕らより高い存在だから。上ることは難しいから、下りてきてもらおうということでした。


「『じょうほとだきょう』だっけ」


 ハアトの口から普段僕が話し合いの時によく口にする言葉が出ます。「ぎゃくだっけ? どっちでもいいや」と投げやりに吐き捨てながら、ハアトはやっと立てるようになった僕に向けて続けます。


「ハアトとおなじだけ、にんげんもゆずってよ」


 強い、言葉でした。

 同時にその強さは正しいからでした。


「僕の死の危険で釣り合わない……かな」

「それはルアンさまがかってにやることだよ」


 けっかてきにはハアトがゆずってるもん、と口にする彼女の言葉に見えるのは先程までの冷たい意思でもましてや怒りでもなく、いつの間にか彼女らしい不満になっていました。……だからこそ、僕も心苦しくなります。

 でもいくら心苦しくても、これ以上の案を僕は思いつきません。その不甲斐なさを貫こうとして、僕はふらふらと立ち上がります。例え無理だとしても、これしかない。それを再度証明するために、僕は痛む体に鞭打って再び彼女の鱗に触れ――


「もしかして……ルアンさま、ハアトのこときらいなの……?」

「っ!」


 動けなくなりました。思考も一瞬で凍り付いて。

 ハッと顔を上げます。そこには……そこには、人間の少女の姿になったハアトの姿がありました。僕に不信の目を向ける、幼い黒髪の少女が。


「ハアトがきらいだから、いじわるするの?」

「いや、それは……っ!」


 違う。それは違う。ただそう言えばいいだけなのに、僕はそれが口に出せませんでした。昨日の夜に闇から湧いた疑念がハアトの表情を借りて僕の胸に再来します。

 僕にとってハアトは本当に大切な存在なのか?

 僕はハアトのことが好きなのか?


「そうなんだ。ハアトのこと、きらいなんだ」

「ハアト、それは…………っ!」

「それはなに?」

「それ、は……」


 ただ否定すればいいだけなのに。口だけ、うわべだけの文句なんて誰よりも得意な生まれなのに、僕の口は否定の文句を紡げませんでした。まるで魚のように、ただ口を開けるだけで。

 ハアトの表情が、ドラゴンのように読めなくなります。

 赤い瞳は色に反して凍てつくような印象でした。


「でていって」


 仲直り、一緒に考えよう。

 先刻そう言って招き入れてもらったはずなのに、いま僕は更なる不信感を彼女に与えるだけでした。端的にそれだけ告げて俯いたハアトは、もう僕の言葉が届きそうになくて。


「でていってよ」

「待って、待ってハアト……!」


 なお情けない声を上げる僕。ハアトはキッと睨み上げると癇癪を起こしたように、両手を握り締めて感情のままに叫びました。


「でていけぇぇぇぇぇぇぇ――ッ!!」

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