第17話 元・王子、熊を吐く

 髪の毛が口に入るという経験は誰しもがするもので、髪の毛以外でも藁だとか何やらが口の中に入るということもあるでしょうが、それはまぁともかく、『毛が口に入る』という話です。

 毛というものは細いくせに強靭という、通常であれば有効な特性を持っています。しかし、こいつは口に入ると大変厄介なものでして、えぇ、端的に言えば非常に不快です。


「はーいっ! あーん! あーん!」


 熊の毛ってやつは、僕らの髪の毛なんか比にならないくらいの硬度を誇っていることを絶賛頬と唇で味わっています。ごわごわです。なんかよくわからない脂も滲んでおるし。


「ルアンさまー? しんじゃったの?」


 まだ死んでないよ。首を横にぶんぶん振って存在と拒否権を誇示します。


「よかったー! じゃあ、ほら、あーん!」


 何が良かったんでしょうか。僕にとっては全くもって良くない状況です。想像してみてください、黒い巨大なドラゴンが熊の死体を人間の少年に押し付けるさま。……なんですかこれ。ともすれば地獄絵図ですよ。少なくとも僕にとっては好ましい状況ではありません。参った参った。


「……」


 かといって返事は出来ません。ハアトの押しは物理的にも精神的にも強く、僕は口を真一文字に結んで更に歯を食いしばって、最後の砦として己の口が熊の侵攻を妨げているのでした。


「ルアンさま、てれなくてもいいのに……ハアトたちふうふでしょー?」


 照れてないんですけどね。確かに夫婦ってことになってますけれども、それでも許容出来るものと出来ないもの、もっと言えば出来ることと出来ないことがあります。『熊をそのまま食う』は僕には不可能です。

 ハアトもあまりに強情な僕に少し眉(ドラゴンなので毛は生えていませんが、眉に相当する部分です)をひそめます。


「むー……しかたないなぁ」


 諦めてくれるのか!

 ……そう、僕がにわかに期待を抱いてしまったのも束の間。


「はーい、あーんっ!」

「っ!?」


 ハアトの言葉と共にその口元が一瞬煌めいたかと思うと、まるで三人目の誰かがそこにいるかのように僕の口はこじ開けられてしまったのです。我が口の不可解な挙動と突然の出来事に声も出ません。そして僕が声を出していなくて、口が開いていて、ハアトは僕に熊を食わせようとしているのですから――次の結果は読めます。


「ッ!」

「えへへ、やっとあーんされてくれたね!」


 ……あーんされてしまいました。

 口の中に熊の逞しい剛毛が突っ込まれます。口内とか喉に突き刺さらんばかりの勢いです。謎の脂は死臭を放ち、塞がった口腔内も相まって一瞬で嗅覚まで殺されます。反射的に口を閉じようとして間に合わなかった歯は剛毛越しに死んだ熊のぐにゃりとした最悪の食感を味わいまして――


「ヴォォエっ!」


 僕は無様な呻き声と共に吐きました。空腹だったので主だった吐瀉物こそありませんが、酸っぱい体液が鼻と口から射出されます。半透明の黄色い粘性の液体が我がものとは思えない悪臭を連れて口内と鼻を駆け巡るわけです。汚い。


 ついでに言えばハアトが熊の死体の反対側を持っている訳ですから上手く吐き出せず、しかし爆発した嘔吐感を抑えられなかった僕の体は『自身が後ろに吹っ飛ぶ』という方法で嘔吐を実現させてくれました。なんと臨機応変なんでしょう。

 その臨機応変さのお陰で僕はカッコ悪いことこの上ない尻餅をついただけでなく、なんと自分の吐瀉物を自分の体で受けることになります。うわっ、きったねぇ!


「かはっ、げほっ……うぇぇぇ……」


 初めての『あーん』がこんなに最悪の思い出になろうとは思いませんでした。下手をすれば僕の生涯で最悪の気分です。まだ口の中が気持ち悪い。剛毛の感触と嘔吐物が頼んでもないのに不快感のコラボ配信です。やめて欲しい。マジで。

 しかし、悪い出来事とは多くの場合意味わかんないくらい連続するものです。えぇ、島流しに遭った僕がその道中で難破したように。


「あー! だめだよルアンさま」

「……うっそだろ」


 嫌な予感しかしません。嫌な予感は当たります。

 僕が吐き出したことにちょっと怒ったのでしょうか、ハアトは可愛らしい声と荒い鼻息(ドラゴンの鼻息、結構荒いようです)と共に再び僕に迫ります。吐瀉物をもろに被った熊さん(故)と再会です。僕たちは二度と会うこともない、触れ合うこともない……その方が絶対良いと思うんですけどね。少なくとも僕としては。

 ですがハアトさんとしてはそうではないようで。


「にんげんってちゃんとたべないとすぐしぬんだから」

「いや、えっと、待ってハアト」


 すぐ死ぬはドラゴン基準でしょう。かの種族の平均的な寿命が分からないのですが、まぁあなたから見れば人間はすぐ死ぬでしょうね。でも今の問題はそこじゃないんだよハアト。


「ちゃんとたべないと!」


 迫り来るドラゴンと熊の死骸。

 いっそ死を覚悟するレベルの不快感を予感していた――そのとき、特に不思議でもないですが良いことが起こりました。

 聞こえてきたのは遠吠えです。

 上の方から聞こえて、洞窟内に微かに反響しているようでした。


「ルアンさまー?」

「待ってハアト」

「ん? まつよー。どうしたの?」


 僕が割と力強く『待て』をしたおかげでしょうか。ハアトは器用に顎先に熊を引っかけたまま立ち止まります。と同時に彼女の聴覚にも遠吠えが聞こえたのでしょう。ゆっくりと首を高く持ち上げます。落下する熊の死体は僕の近くに。


「……なんだろう」


 ハアトにしては少し低い声です。まぁ、自身の巣によくわからない獣が入ったと想像すれば若干警戒の心境になるのも無理はありません。ですがハアトにとっては知らない獣の遠吠えに聞こえても、僕には知っている声でした。


「ベルだよ、戻ってきたみたい」

「ルアンさまわかるの? ハアトにはいぬのこえにしかきこえないけど」

「間違いない……はず。うん、大丈夫」


 確かにベルは落ち着いた女性ですので、いくら犬の獣人と言えど咆えることなんて早々ありません。獣人にとっても咆えるというのは若干はしたない行為らしいですし。

 ですが、僕は彼女の遠吠えになら聞き覚えがあります。僕が迷ったときや、二人で迷って大人を呼んだ幼い日から数回聞いていました。どこが他の遠吠えと違うのかと問われれば言語化は出来ませんけど。


「むー……わかった」


 いまいち彼女の理解には及ばなかったようですが、しかし上位生物の余裕というやつでしょう。ハアトは巣の入り口の方を睨みました。ハアトにとってはベルじゃなかった場合は貯蔵のお肉が増えるだけですからね。即座に不可解な風が巻き起こります。

 僕らが見守る中、風は上から降ってきた人影を柔らかに受け止めます。人影は着地と同時にこちらへ駆けてきました。天井の謎光源にその姿が照らし出されます。


「ルアン様っ! ご無事ですか!」


 えぇ、間違いありません。ベルです。荷物は整理したようで、小麦たちは下ろしてありましたが新しく何やら麻袋を持っていました。

 彼女は僕を相当心配してくれたと見えます。僕へと一直線に駆け寄ってくれました。麻袋を地に置くと、尻餅をついていた僕を引き起こしてくれました。


「だいじょ……うわっ、なんですかこの匂い……」


 引き起こすついでに僕の観察です。最初に言及するのが匂いであるところに彼女らしさを感じますね。さっきまでの心配顔はどこへやら、凄い形相です。


「……まさか吐きました?」

「ちょっとだけね。でもベルのお陰で助かった」


 嘘は本当のことに混ぜて言うと良いって言いますよね。ベルのお陰で助かったのは本当です。彼女が戻ってきていなかったら僕は熊を喉に詰まらせて死んでいたかもしれません。なお嘘というのは『ちょっとだけ』の部分です。盛大に吐きました。


「……えぇっと」


 状況整理のためにベルは辺りを見回しています。その目に映るものを列挙してみましょう。匂う僕。見下ろすハアト。吐瀉物まみれの熊(死体)。……突然見ると意味わかんないですねこの絵面。

 ベルにとってもやっぱり意味不明だったようです。彼女はやれやれと頭を抱え力なく尻尾を振ると、その鋭い視線を首を持ち上げたままのハアトへと向けます。


「ルアン様に何かした?」

「『あーん』してあげたよ」

「『あーん』!?」


 驚愕の表情のまま僕を凄い勢いで振り返るベル。……まぁ間違いではないんですけど、僕はこの意味不明な状況の説明をつけるため、頷きながらも僕にかかった吐瀉物と転がる熊の死骸を指差します。呆気にとられるベル。


「……ハアト、いい? 人間はそんな野蛮な食べ方しないの」

「今ので伝わるんだ……」


 すげぇなこの従者。僕一言も説明してないぜ? 解釈能力の権化みたいな頼もしさがあります。やっぱりベルは僕に必要不可欠ですね。ニコイチって言うんでしょうか。違う?

 対してハアトは『野蛮』なんて言われたんですからムッとします。いわゆる『おこ』です。


「なんなの? もんくいうためにきたの?」

「いえ、あなたがルアン様に迷惑をかけたようだから」

「めいわくじゃないよ! そんなこというならベルかえって」

「なっ……いいわ。言われなくても帰るつもりだし」


 また険悪な雰囲気になってきました。僕としては両名とも離れがたいので仲良くして欲しいことこの上なしなんですけれども。離れがたい理由がそれぞれ大きく違うのは、まぁ、それはそれとして。

 ハアトはまだよく分かっていないところがあるのでともかく、ベルはそもそもそんなに短気ではなかったはずなんですが、色んな要因が重なってハアトへの好感度がいちじるしく低いようです。現に舌ったらずなドラゴンに煽られて帰ろうとしていますし。もちろん僕を連れ帰るつもりです。


「さぁルアン様。こんなドラゴン放っておいて帰りますよ」

「ベルさん蛮勇だね。相手はドラゴンだよ」

「知ったことではありませんので」


 ただ残念なことに件のドラゴンにとっては知ったことじゃないわけではありません。


「だめ! まって!」


 鋭い声が降ると同時に何かが地を素早く這う音がしたと思えば、ベルの行く手をハアト自身の鱗に覆われた黒い尻尾が遮ります。本体は一歩も動いていないのに僕らを弧状に囲んだその長さもさることながら、その大きさはにわかに立ち込めた土煙も相まって最早別の生き物が横たわったようにも見えます。……長い長いとは思っていたけれど、間近で動かされると迫力が段違いです。ドラゴンは一挙手一投足が畏怖を呼び起こしかねない。

 僕らを遮ったハアトはゆっくりとこちらへ歩を進めて怒ります。


「いったでしょ、ルアンさまはハアトのだんなさまだって!」

「だから何ですか」

「だんなさんとおよめさんはいっしょにくらすの! ルアンさまのいえはここだから、ルアンさまはかえらないよ!」

「いいえ。ルアン様の家はちゃんと地上にあるから」


 僕が『お話』を付けていなかったせいでまた繰り返しですよ。このままだとお互いにとんでもないことを言い出しかねません。『女が二人で口喧嘩を始めたら可能な限り早く止めろ』……女性問題の末に処分を食らった元・近衛長の言葉が染みます。

 かと言って迂闊に口を挟めば「ルアン様は黙ってて!」と僕が一番悲惨な状況になりかねません。そうなったら最悪です。それは避けたい。

 僕が考えている間にも口論は加速します。


「にんげんのふうふだっておなじいえでくらすんだから!」

「でもあなた人間じゃないじゃない」


 ……それです。僕の中にハッと一つの案が閃きます。ベルの考えと、僕の立場と、ハアトの考えを纏めたら得られたものです。……おぉ、おぉ。なんか凄まじい閃きな気がしてきました。我ながらとんでもないような案ですが、どう考えてもこれ以上にこの場を丸く収める案はありません。

 ですが、あまりにも短絡的ですし、ベルもハアトも賛同するかはわかりません。もう少し練って……。


「そんなこというんだったらベルのいえなくしちゃうから」

「待っ、待って! はい待って! 僕にいい考えがある!」


 ダメでした。

 あまりにも物騒で直接的な発言がよりにもよってハアトの方から飛び出したので僕は会話に割って入ります。これ以上は島全体の問題になりかねない。森が燃えかねない。

 僕が『いい考えがある』と口走ったからでしょう、二人とも一旦口喧嘩をやめて睨むように続きを伺ってくれます。視線が痛い。しかしこうなった以上口にする他はありません。僕は呼吸を整えると切り出します。


「ベルはこの巣じゃなくて、家に帰りたい。だよね?」

「……えぇ」

「ハアトは人間の夫婦みたいに、僕と一緒の家で暮らしたい。だよね?」

「うん!」


 なら、可能かもしれません。

 僕は改めて大きく息を吸い込むと、自身の頭に浮かんだ案を唱えました。今の僕に考えうる、恐らく一番の名案を。


「だったらさ……地上の僕らの家で、ハアトも含めた三人で暮らしたら良いんじゃないかな?」


 三人であの家に住めば、僕とベルは暮らしたい家で暮らせるわけですし、『人間の真似』が好きなハアトとしては僕と一緒に過ごせて人間っぽい暮らしも出来る。

 ……割と名案だと思うのですが、どうでしょうか。

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