第2話 従者、絶望する

 昔からそれはもう流されることの多かった僕ですが、船に揺られて吐き気を催しても、波に揺られて吐き気を催すことはなかったと思います。流されてる時に「おぇっぷ」となってしまうのは大抵鼻に水を吸い込んでしまったとき。難儀なことです。

 そしてそれは今回もそうだったようで、意識を取り戻した時には体の内部に不快感はありませんでした。


「オヤジー、コイツ生きてっかな?」

「突いてみたらどうだ、ン?」


 ……体の外に違和感はありましたが。

 耳が先に覚醒したので視覚情報こそ伺い知れませんが、聞こえてきた会話の内容から察するにどうやら水死体か否か判別しようとしている様子。現に突かれてますし。ここで死体と判別されれば何をされるかわかったものではありません。僕は自身の生を主張します。ルアン・シクサ・ナシオン、健在。


「い、生きてます……」

「うわッ、コイツ生き返った!」


 元から死んでないんですけどね。

 少年の(いやまぁ僕も世間的には少年なんですが)声に瞼も驚いてゆっくりと視界が開けます。辺りを見回せば……白い砂浜と背面には穏やかな波。どうやらどこぞに流れ着いたようでした。

 隣には僕を先程まで突いていたであろう少年。年は十二、三……僕より少し小さいくらいでしょうか。手にした木の枝と小麦色の上裸が野性味たっぷりで素敵です。


「オッ、生身で流れてきたのに生きてたのかァ! ソイツぁ丈夫なヤツだな」


 僕と少年が顔を突き合わせていると、さっきも耳に届いていた男の声がします。振り返ってみれば、船の残骸と思わしき木片を担いだ大柄な男性でした。腰巻に上裸で筋骨隆々の小麦色。少年の父でしょうか。


「よォ坊主。怪我ねェか」


 少し訛ったような荒い言葉と共に手が差し出され、僕はありがたくそれを掴みます。すると簡単にひょいと引き上げられて、倒れていた僕は立ち上がることになったのでした。ルアン・シクサ・ナシオン、ますます健在。


「立てるってことァ無事そうだな」

「お陰様で……?」

「いいってことよォ」


 ニカッと素敵な笑みを浮かべる男性。海の男って感じがしてとても好感が持てます。

 男性の言う通り僕は漂流したにしては無事でして、服はところどころ破れているにしても大きな怪我はありませんでした。日頃の行いの成果に違いありません。口の中がじゃりじゃりするのが妙に不快ですが。

 ただ無事なのはわかっても混乱しているのかまだ頭は働かず、自分が今何をすべきなのかよくわかりません。と、そこへまた別の少年の声が僕らの下に届きました。


「オヤジー! こっちに獣人が倒れてる!」


 獣人?


「……ベルっ!?」


 気が付けば僕は二人より先に駆け出していました。砂に足を取られながら、半ば転がるように声の方へ。同時に難破した瞬間のことも思い出して、不安が迫ってきます。僕だけが運が良かった可能性だって、あるから。

 すぐに彼女の姿は見えました。気を失っているのか、艶やかな黒の毛並みをぐっしょりと濡らしたベルが砂浜にうつ伏せで倒れています。近くには声の主だろう少年。


「ベルっ! ベルっ!!」


 さっきまで能天気だった頭が視覚情報によってこれが緊急事態だということを知らせます。駆け寄った僕は彼女の体にすがりついて揺さぶります。


「ベル、しっかりして! ベルっ!」


 急に襲ってくる不安と恐怖。余計な暗い空想ばかりが頭を駆け抜けるのを必死に無視しながら呼びかけます。目立った傷はありません。大丈夫、きっと。

 傍にいる少年も顧みずそうしていると、不意に彼女の体が腕の中で跳ねました。


「……うぇぷっ」


 口の端から海水が吐き出されます。それを誘い水にするように、小さく揺れる彼女の鼻とゆっくりと開く切れ長の瞳。


「……ルアン……?」

「ベル……! 良かった……」

「そんなに揺さぶられれば起きます……もう」


 自分の名前を呼ばれてようやく僕は安堵出来ました。笑みと共に大きなため息をつくと、ベルは普段の調子を取り戻すように顔が強張り始めます。


「……ルアン様、体が海臭……失礼、磯臭いです」

「どっちにしろ失礼だからね」


 ベルとしては気を遣ったんでしょうが、その言い直しのせいで少しおいしそうな表現に。あと磯臭さで言えば同じく流されてきたベルも同じくらいです。むしろ毛の分ベルの方が磯っぽい。……口には出せませんが。

 ともかく二人とも無事でよかった。僕がひとりでにそう安堵していると、先程の二人もこちらへ来ていました。男性が豪快に笑います。


「はっはっは、良かったなァ坊主。おめェの仲間だったんだな」

「はい、お陰様で」


 ……本当に良かった。

 対するベルはと言うと、覚醒して段々頭も回り始めたのか、男性を前にして僕に尋ねます。


「……そちらの方は?」

「えーっと、……えーっと」


 答えようとしましたが僕も知りませんでした。何ぶん僕もさっき起きたばかりですので。

 そんな僕らの問答を見て、彼は再び豪快に笑い飛ばすと自ら名乗ってくれました。


「はっはっは! オレはカルロス。この島で漁師やってる。コイツらは俺のガキだ。アンタらは?」


 カルロスさんはそう言いながら少年二人の頭を手荒く撫でます。そして名乗っていただいたのですから名乗らねば、とベルは砂をはたきながら立ち上がります。


「こちらはロイアウム王国元第六王子、ルアン・シクサ・ナシオン。私はその御付きのベルでございます」


 紹介に預かって僕が礼をすると、またカルロスさんはでっかく笑います。大迫力です。


「おォ!? 今度は王族と来たかァ! そんな身分のヤツが流れ着いたのは初めてだぜ!」

「……流れ着いた、と申しますと」

「ン? 見ての通りだ」


 ベルが探るように尋ねると、カルロスさんは両手を広げて辺りを見回すような仕草をします。つられてぐるりと見回せば、なるほど、先程は気付きませんでしたが太陽は傾き、弧状の広い砂浜には船の残骸やら積み荷やらが僕らのように打ち上げられていました。それを物色する人たちの姿も見えます。


「昼に遠くで嵐が見えたからもしやと思ったが……さてはアレで難破したな?」

「……そのようですね」


 ベルは頷きながら中空を睨みます。色々と整理し始めているのでしょう。僕の方はと言いますと、状況は分かっても何をしたらいいかはさっぱりなのでカルロスさんとベルの会話を突っ立って聞いているしかありません。さながら城の廊下の甲冑。

 そしてベルは物事の優先順位が付いたのか、再びカルロスさんに尋ねます。


「……失礼ながら、ここはどこでしょう?」

「そりゃそうだ」


 いつ聞くのかと思ってたぜはっはっは、と笑い飛ばしながらカルロスさんは気前良く答えます。


「ここはイルエル。小さい島だが、良い島だぜ」

「イルエル? 島? ……ルアン様」

「……聞いたことないね」


 ベルに尋ねられて、僕も首を横に振るしかありません。一応第六とは言え王子だったので勉強もさせられ、それこそ国の地図やら海図やらはそれなりに覚えているつもりなのですが、それにしても『イルエル』なんて地名は聞いたことありませんでした。

 するとそれもまるで知っていたことかのように、カルロスさんは笑います。よく笑う人です。好感度は上昇の一途。


「なんだ、まだロイアウムの海図にも載らねぇのかここは! はっはーッ! いやまぁ仕方ねぇのかもな! ……じゃあなんだ、アンタらはどこに向かうつもりだったんだ?」

「イルケー、という島に」


 ベルが口にしたのは僕の流刑地として指定された島です。王国本土からは離れた島で、海往く船たちの中継点となっているものの、それ故治安はあまりよろしくないと聞きます。麦粥が有名だとか。


「イルケーか……あー……」


 そしてイルケーの名前を聞くと、カルロスさんは目を細めながら水平線を指差しました。遠く離れた辺りに、小さな山のようなものがなんとか見えます。


「見えるか獣人の姉ちゃん」

「見えますが」

「アレがイルケーだ」

「……まさか」

「そのまさかだな。イルケー行きとはまァ、随分流されたモンだなァ」


 命あって良かったなァ、と僕の肩を荒っぽく叩くカルロスさん。筋肉質な豪腕から繰り出されるスキンシップは軟弱な王城暮らしの僕にとってはそこそこ痛かったのですが、しかしそれどころではありませんでした。ベルの表情がみるみる青さざめていくのです。

 いえ、青ざめると言うのは正しくないでしょう。なんせ彼女、獣人ですので顔色は変わりません。しかし青ざめると形容して差し支えないほどに、彼女の表情は強張っていきます。目は見開かれ、尻尾の毛がぞぞぞと波打っています。


「な、なんてこと……」


 一、二歩後退るベル。

 彼女はそう呟くとカルロスさんたちを無視して僕に掴みかかりました。そして先程僕が彼女にそうしたように激しく揺さぶります。その形相は必死そのもので、いつもは半垂れの耳も心なしか立ち、尻尾もぶんぶん揺れます。


「ルアン! 早く、脱出しないと! イルケーに着かなければお終いです!」

「落ち着いてベル」

「これが落ち着いてられる!? 海図にも載ってないような島に漂着! 明日の命も知れないというのに! 死んじゃう!」

「死んじゃわないから」

「そんなのわからないじゃない! あぁ……!」


 我を失っています。というか素が出ています。普段はクールを取り繕っている素敵な彼女ですが、一旦それが綻びてしまうと地のネガティブが顔を出します。

 置いてけぼりを食らったカルロスさんはやれやれと肩を竦めると、空を仰ぎお子さん二人に「先に帰って晩飯を二人分増やしてくれ、って母さんに言ってくれ」と告げ、こちらを見やります。


「オレたちのイルエルも酷い言われようだな。イルケーとはそう大差ないんだが」

「ってカルロスさんも言ってるけど」

「知らないわよそんなの!」


 あぁもう、と頭を掻きむしるベル。潮で毛が固まりつつあるのもあってもうぐしゃぐしゃです。


「島流しでただでさえ妙な方向に転がり出したのに! お次は難破で海図にない島! きっとこのまま虚しく……あぁもう、お先真っ暗……いやだ……」


 最後の方に至っては座り込みそうな勢いです。ベルは僕よりずっと賢いし頭もよく回るんですが、考えすぎというか、物事を悪い方向に捉え過ぎる気があるように思います。……そう言うと、大抵の場合「お言葉ですが、ルアン様が考え無し過ぎるのです」と返ってくるのですが。


 ただ彼女がヒステリックになってくれたおかげで、僕とカルロスさんは比較的冷静でいられました。いや、カルロスさんが冷静なのは当然ですが。

 彼は僕が困惑しているのを見ると、笑い飛ばして付いてくるように背を見せます。


「もう陽も落ちる。運よくここんとこは大漁続きでな。ほら、晩飯なら出してやるから」


 この時の彼のでっかい小麦色の背中ほど頼もしく見えた背中はそうありません。


「それに腹が膨れりゃ、獣人の姉ちゃんの気もちったァ晴れるだろ」

「だってさ。ご馳走になろうよ、ベル」


 冷静になったからか、或いはカルロスさんの言葉が優しいからか、僕の体も空腹を訴えていました。幸いもう食べたものが大回転の曲芸を披露することもないでしょうし。

 しかしベルはまだネガティブを引きずっているようで、


「でも……何食べさせられるかもわかったものじゃないのよ……?」


と項垂れています。こういうベルは珍しく幼い頃を思い出すので嫌いではないですが、まぁ、その、はっきり言って面倒くさいです。


「じゃあ何か? オレはアンタらがここでこのまま野垂れ死んだって構わないぜ。貰うモン貰って手厚く流してやるからよ」

「……ご馳走になります」


 ネガティブモードのベルも餓死は避けたいようです。はっきりしないベルにはっきりした答えを出させたカルロスさんは悠然と砂浜を歩き出します。僕はなんとかベルを立たせると、その背を追いました。


「そうだ、アンタたしか元だかなんだか知らんが王子様なんだろう?」

「あぁ、はい」

「庶民の味が口に合うかは知らんが、食う食わないはおめェ次第だ。ただマズいって言ったら殴る」

「……肝に銘じます。……ところで、リーキとか、ネギ類が出る可能性は?」

「あァン? 帰ってみねェとわからねェが……食えねェのか坊主」

「いいえ、ベルが」


 犬の獣人は一般的にネギ類が嫌いです。


「……まァ、聞いてはみる」


 取り敢えず、今日という日は生き残れそうですが……果たして、これから僕らはどうなってしまうだろうと足取りの重いベルを引っ張りながら僕は考えるのでした。考えても、どうにもならないんですが。

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