「煙草の匂いがする」


──煙草の匂いがする。

 甘いバニラと燃えた紙の燻ったにおい。

 彼女の匂い。それは私の胸を高鳴らせ、そして苛立たせた。眉をしかめる私の顔を、隣の紳士が怪訝そうに見ている。

 愚かな、大人らしくない真似をしてしまった。もう私はあの頃には戻れないというのに。

 甘い煙草の匂いは、一瞬だけ私を少女に変えた。


 彼女に出会ったのは某ファイトクラブ。私は観客で、彼女はファイターだった。

 褐色の引き締まった肌を惜しげもなく晒して、ワセリンでテカテカに光らせていた彼女はまるで海外のストリッパーを思わせたが、ゴングの音が響けば彼女はその場のどの男達よりも狂暴な獣となり、すべてを喰らって蹴散らしていった。

 私はそんな野蛮な獣に心臓を食われたジェーンの一人だった。


 彼女の回りには常にジェーンが居た。私よりも若いジェーンも、彼女よりも二回り年上のジェーンも居た。控え室で数人のジェーンと彼女が一緒にシャワーを浴びている事も度々あった。

 ただ、ジェーンは彼女の恋人では無かった。彼女はフリーの女性に手を出す事が無かったから。

 彼女はターザンではないのだ、ターザンの恋人であるジェーンにちょっかいを出す、手癖の悪いジャングルの獣。


 私には恋人が居なかったから、彼女は最初私を相手にはしなかった。だから私は同じサークルの先輩の告白を受けた時に直ぐに応じ、彼と付き合った。

 眉毛が糸みたいに細くて、「格好いい」と「わがまま」を「サディスト」と「意地悪」を履き違えているような自己中心的な顔だけの男だったけれど、私にとっては彼は彼女と……ビーストと付き合う為の道具であったのだからお互い様だ。

 「彼氏ができました」と裸のビーストに言うと、彼女は私の方をじっと見た後に、冷めた声で「……あっそ」と煙草の煙と共に吐き捨てた。

 バニラの香りの煙草。彼女と別れて数年後に同じ銘柄の煙草を探したが、それは廃盤になっていた。

 

 はれてジェーンの一人になった私は、彼女のお気に入りのジェーンになった。私は常に彼女の隣にいたし、彼女と二人きりでシャワーを浴びたこともあった。

 ジェーンで居続けるために先輩との関係は続けていた。はじめは私を支配しようとしていた先輩はいつの間にか私の下僕となっていた。その事をビーストに話すと、彼女は笑って「それでこそジェーンだよ。ジェーンはターザンを飼いならす事ができる強い女性なの」と私の目をまっすぐ見つめて言った。彼女の瞳は美しい魔性の湖。私はそこに溺れるジェーン。


 ビーストと私の終わりはあまりにもあっけないものだった。「風営法違反」「賭博禁止法違反」そんな通報があったらしく、クラブに警察がたくさんなだれ込んできて、そして全ては無くなった。

 しばらくローカルのワイドショーを賑わせていたそのニュースを見て、先輩は私のことを「危険な女」だと思ったらしく、彼は私と距離を置くようになった。私も怯えきった都会のターザンには興味が無かった。私たちは、別れた。


 今となっては、ビーストと出会ったのはすべて夢の中の話のような気もしてくるほどに、彼女の存在は現実から離れていた。クラブが無くなった後のビーストの行方は誰も知らなかった。他のジェーン達も、彼らのターザンのもとに帰り、退屈なただの女に戻った。


 それもずいぶんと昔の話。もしも今の私がビーストと再開しても、彼女は私に興味を示さないだろうし、私もターザンがいながら獣とも遊ぶふしだらなジェーンにはなれない。

 それでも私は人混みであのバニラの匂いを探してしまうのだ。



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あの子、今日も壁に向かって呟いている 室小木 寧 @murokone

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