第2話

 真奈美はブレーキをきつく握り、自転車を止めた。そもそも海抜の高いこの町では、山のふもとに来たところでその壮大さを感じることは難しい。そんな親しみやすく、日の光が行き届いた森の入口に祖母の家があった。この二階建ての日本家屋は夏になると蚊が大量発生するため、少女はあまり近づきたくない場所だと思っていた。幸い今は冬の気配を残した春先であり、そうでなければ少女はここまで来なかっただろう。

 額の汗が顎まで垂れてきている真奈美の背中には汗染みができていたが、少女は気にしたようすもなくそこにもたれかかっていた。

 少女は荷台から降り、息があがっている真奈美の汗を自身のハンカチでぬぐった。ずぼらな少女があらかじめハンカチを用意しているのはどういうわけだろうか。それは、以前使ったものをジャージのポケットに入れたまま洗濯したため、ポケットのなかにしわだらけの状態で存在していたからだった。少女はそれを素知らぬ顔で、真奈美にばれないようにしわを伸ばして使っていた。真奈美は庭に停めてあった原付バイクの横まで自転車を押して歩き、スタンドを下ろして鍵をかけた。

「畜生! 畜生め!」

 家の中からしわがれた叫び声がした。少女たちは顔を見合わせ、走って玄関に向かった。祖母の玄関に鍵をかけない習慣が幸いし、真奈美を先頭にして二人は中に入ることができた。

 真奈美は玄関に置いてあった傘を武器として持ち、靴を脱いでスリッパに履き替え、少女のスリッパもかかとを揃えて差し出した。

「下郎め、そうくるか!」

 二人はみしみしと音をたてる階段を慎重に上っていると、普段の祖母からは想像できないような語気の荒い声を聞いた。しかし、祖母が戦っているだろう相手の声が聞こえてくることはなかった。

 少女は階段の狭い踊り場に飾ってある円柱状の花瓶を武器にしようと手に取った。中身は入っていなくてもずしりと重いそれは、祖母に害を成す悪人に制裁を加えるのにふさわしい武器だ、と少女の士気は高まった。

 階段を上り終えた二人が二階を見まわすと、一番奥の部屋のふすまが少し開いているのを発見した。気配からして、そこに祖母がいると見当をつけた少女たちは忍び足で廊下を歩いた。

「花瓶重い」

「わたしが持とう」

 二人は武器を取り替え、意を決したように勢いよくふすまを開けた。

「お祖母ちゃん!」

 部屋の中は祖母だけだった。その祖母は部屋の隅にあるクローゼットに上半身を突っ込み、中にある何かを押さえこむようにして暴れていた。

「なにしてんだババア」

 祖母がひとり遊びに励んでいる、と判断した少女は傘を投げ捨てた。それも致しかたないことだ。なぜなら、クローゼットの中にはハンガーにかかった服しかなく、祖母が戦うようなものは入っていないのだから。

 ため息をついた真奈美は少女が投げた傘を拾い、花瓶とともにもとあった場所に返しにいった。

「ほりゃああ!」

 ひとりになって手もち無沙汰になった少女が祖母に声をかけようとしたとき、祖母はいままで以上に大きな声を出した。そして、前転するようにしてクローゼットに飛び込むと、声が途切れて姿が見えなくなった。

 少女がクローゼットに駆け寄って中を覗くと、そこには底板のかわりに暗闇だけがあった。冷たい風が吹き上げてきて、少女の髪と中にあった衣類を揺らした。少女は試しにと中に唾を吐いたが、暗闇の中に飲みこまれただけだった。さらに、足もとにあった座布団を落としたが、結果同じく吸いこまれて消えた。異常を察知した少女はクローゼットから離れ、真奈美を呼ぶために部屋を出た。

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