教会に行こう

音水薫

第1話

 「お祖母ちゃんが風邪ひいたみたいだから、お見舞いに行ってあげて」

 少女が小さな画面に目を向けて自分だけの勇者を意のままに操って悦に浸っていると、少女の母はノックもせずに娘の部屋に入った。彼女は右手にお見舞い品が入ったポリエステル製の手提げ袋を、左手には一万円札を握っていた。少女自身、今日は一歩も外でない、と決意を固めたうえでゲームに勤しんでいたはずなのだが、決して少なくはない額の金銭を目にした途端その決心も揺らいだようだった。彼女は緩慢な動きで部屋着、中学校指定の体操服、を脱いだ。そして、少女はピンクのラインが三本入った紺色のジャージを身に纏った。あまり洒落ているとは言い難い格好だった。

「またそんな格好して。ちゃんとした服を着なさい」

 どこの家庭でも同じことだが、世間体を気にする母は娘がだらしのない格好で出歩くことを快く思っていなかった。

「やだよ。ジャージ着てたらお祖母ちゃんが『これで可愛い服買いな』って言ってお小遣くれるんだもん」

 母は娘を着替えさせたいと思い、中身が入ったエコバックを少女の太腿にぶつけ、部屋に押し戻そうとした。何度目かの衝突でタイミングをつかんだ少女は母から袋をひったくり、古くからの友人にメールを打ちながら階段を下りて玄関に向かった。

「お祖母ちゃんに、娘に服も買ってやらないのかって文句言われるのはわたしなのよ」

 母は少女のあとを追って玄関までついてきた。そして、座り込んでスニーカーの靴ひもを結んでいる少女のジャージの裾を踏みつけ、引っ張りながら愚痴を言い続けた。少女は母の足を退けるため、下駄箱に寄り添っている靴べらを手にとって母のすねを叩いた。母は少女の非力さを笑い、いつまでも足をあげなかった。

インターホンが鳴り、母から解放された少女が玄関を開けると、彼女のふたつ年上の幼馴染、真奈美が立っていた。運動に適したラフな格好の彼女は少女の姿を認め、小さく手を挙げた。

「急に呼び出すから驚いたよ」

 真奈美は頭一つ分以上小さい少女を見下ろし、くしさえ入れられていない少女の髪を撫でた。幸いと言うべきか、少女の髪は長く、常時結わえているせいもあってはねたような寝ぐせがつくことはあまりなかった。

「それで、どこに行けばいい?」

 真奈美は飽くことなく少女の髪に触れ続け、当たり前のように送迎係を受け入れていた。これは、周りより大人びている、しっかり者だと言われ、指揮官的な役回りを押しつけられがちな女の隠れた願望によるもののせいだった。すなわち、隷属願望。これは人間としてより人形として扱われたい、という自虐的な倒錯した嗜好ではない。主の、少女の役に立ちたい、という恋にも似た奉仕の精神によって、彼女は少女のいいなりになっていた。これは誰もが持っている願望であり、彼女はたまたまその欲が強く偏っているというだけで、なにもおかしなことではない。当然のことながら、真奈美はそうすることに喜びを見出しているので、第三者の言葉に耳を貸し、少女に尽くすことをやめたためしはいまだない。

「お祖母ちゃんの家。掃除とかもよろしく」

 送迎以外の労働を課せられたことによって、表情だけでは判断しづらいが、真奈美の眼に喜びの色が浮かんだ。

 少女は真奈美が乗ってきた自転車の荷台、座布団が縛り付けられて座り心地の良いものになった特等席に座り、サドルを叩いて真奈美を急かした。

「お昼はお祖母ちゃんと食べてきなさいね」

 母は異様とも思える娘たちの主従関係に関心を示さず、二人の出発を最後まで見届けることなく家の中に戻った。

 真奈美は自転車のスタンドをあげ、サドルに座ることなく自転車を押して歩きはじめた。

「なんで乗らないの?」

「上り坂だからね」

 しばらく二人の間で言葉が交わされることはなかった。少女が座っている自転車が三軒目の家を通過したところで道が平坦になり、真奈美はようやくペダルに足をかけ、踏み出した。少女はそのたびに揺れるショートヘアを見つめていた。山に近づいてくると、いつも頼もしい存在である真奈美の細い背中に身を預け、山から吹き降ろしてくる風のにおいを楽しみはじめた。

「まだ着かない?」

「あと三〇分かな」

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