第四章 Sight

 "彼女は語られたすべての言葉を覚えている。それは英雄の誓いから、赤ん坊の泣き声にまで至る。"



 意識の輪郭線をぼんやり、掴んだように思う。

 目が醒めた、のだろうか。

「――――」

 声が聞こえる。僕を呼んでいる。

 陽射しのように暖かくて、月明かりのように優しい。

「フィロ、起きて――」

 ソフィア……?

 僕は瞼を開く努力をした。視界に眩しさを感じる。

 空があった。

 ぼやけた意識と視界が、だんだんと像を結ぶ。

 見えたのはソフィアの姿だ。

 寝転んでいる僕のそばで、彼女は微笑んでいた。

 地面が温かい。太陽が眩しい。

 そのどれもが、ぼやけている。掴みそこねて、発散していく。

「君は……、誰?」僕は声を出した。その声でさえ、どこかに消えていきそうな響きだった。

 彼女は表情を崩さない。僕は、身体を起こして彼女の姿を見つめた。波の音が聞こえる。どうやら僕らは浜辺にいるようだ。

 集中していないと、思考が滑り落ちそうだった。この感覚は、何度か味わった事がある。

「これは、夢だね」僕は言った。それを口にすると、少し意識がすっきりと澄んだように思えた。

 彼女が少し笑う。気のせいか、あるいは僕の願望かもしれないが。

「君は誰?」僕はもう一度尋ねる。

「貴方の、大切な人」彼女は口を開いた。ソフィアの声だった。

「違う、君はソフィアじゃないし、ましてや……」

 僕は言葉に詰まった。

 何かを掴みかける感覚。

「どうして、そう思うの?」

 もう、すぐそこだ。

「勘、だよ」

 彼女は目を細めて笑った。ソフィアがいつもこんな風に笑ってくれればいいのに、と僕は思う。

「そう。それが、貴方と私との違い」

 いつの間にか彼女の声はソフィアのそれではなくなっていた。より低く、少しセクシーな響きに変わっていた。

「君は、一体……」僕は問いかける。

「貴方の望む、それが私」一歩ずつ、彼女が僕に近づく。

「聞かせて。貴方は何が欲しい?」

「僕は……」

 彼女とまっすぐに視線が交わる。澄んだ瞳が僕の両眼を覗き込んでいた。

 そこに、答えがある。そんな確信があった。

「どうすれば、ここから出られる?」僕はゆっくりと言った。

 彼女の瞳が見開かれた。狼狽しているようだ。これは少し予想外の反応だった。

「貴方、人間じゃないの?」彼女が今度は僕を睨んで言った。

「人でなしって呼ばれた事は何度かある」僕の口から言葉が滑り出た。

「はぐらかさない方がいい。貴方をここに閉じ込める事だってできるのよ」彼女の瞳が僕の鼻先まで迫る。

「それもいいかも、って思い始めてる」

 言ってから、僕は多少後悔した。夢の中でも、伝わってからでは遅い、というのは変わらない。

「…………」無言の圧力。それは、ソフィアがよくする仕草だった。

「分かった分かった、話すよ」

 不機嫌そうな顔の彼女が後ろに遠ざかる。僕は一息つくことができた。気のせいだろうが、少し動悸がした。

「夢は、見られないんだ」海を眺めながら、僕は小さく呟いた。きっとこの海は、僕の記憶から再生されているのだろう。

 彼女がじっと僕を見つめている。不機嫌そうな表情に見える。あるいはそれは僕がそう思っているだけかもしれない。

「そういう体質なんだ。だから、誰かの介入だってすぐに分かった。つまり……、君の事だけど」

 僕がそう言い終わってしばらく、彼女は黙っていた。少し不安になる間だ、と僕は思う。僕の言葉も少し足りなかったかもしれないが、これ以上に踏み込んだ説明はこの夢の中のぼんやりとした意識ではうまく行かないだろう。

「理解したわ、ええ……興味深い」

 彼女は元の落ち着いた様子で言った。僕は、彼女と周囲の様子を観察しようと意識を集中した。特に意味がある事ではないが、これをやると少し頭がすっきりする。昔、何かの訓練で仮想空間を体験した時に身に着けたテクニックだ。

 空に目を向けると、黒い線のようなものがいくつか浮いていた。蛇のような動きで空を飛んでいる。よく目を凝らして見ると、線のように見えるそれはウナギだった。

「ウナギが飛んでるよ」僕は笑いながら言った。

「私には分からない」

 彼女がそう言う間にもウナギ達は数を増しているように見えた。

「それは、僕の見ている夢だから?」

「ええ」

「海があるんだから、そこで泳げばいいのに」

「飛ぶのと泳ぐのでは違う楽しさがあるのよ」彼女が言った。

「君は、人間?」

「いいえ」

「そう」

 僕は歩き始めた。彼女は僕の少し後ろをついてくる。

 今、歩いているのは僕の意思だろうか?

 今、考えているのは僕の脳だろうか?

 前に海を見たのは随分前の事だ。

 夢を見たのも、随分前の話だ。

 ふと、足元を見ると暗がりでよく見えない。その陰りが海全体まで覆っているのに、僕は気が付いた。まるで夜のように暗い海だ。けれど、太陽は依然として僕らの頭上で燦々と輝いている。空と海の境界は、今や朝と夜との境界線を描いていた。地面に落ちる影だけが、夜を作り出している。朝と夜とは、こんなにも簡単に混ざり合ってしまうものなのだ。

 こんな絵画を見た事があるな、と僕は思った。

 前に海を見たのは、夜だったように思う。

 懐かしさ、と言うよりも新鮮に思えた。

 確かであるはずなのに不確かで、不可解なのに腑に落ちる。僕の脳は、今何を考えているだろう。いっそ、この状況を楽しむのも悪くない、とさえ思えてきた。

 僕は振り返り、彼女に視線を向けた。僕の視界は、彼女の姿をソフィアだと認識させる。けれど、彼女の着ている服の細部だとか、表情の微妙な変化だとかを注視してみると、いまいちピントが合わないような感覚に陥ってしまう。不思議な気分だった。キツネにつままれたようだ、というのはこういう時に使うのだろう。実際、化かされているようなものなのだが。

「……もうちょっと、別の姿になれたりしないのかい? 僕としてはそっちの方がやりやすいんだけど」

「言ったでしょう。これはあなたの見ている夢なの。私はその中で役割をあてられているだけ」

「ああ、なるほど……そういう事なのか」

 つまり、僕の認識に直接介入している訳ではないのだろう。きっと、頭蓋に埋め込まれたチップに働きかけて、僕に夢を見せているのだ。彼女は僕に語りかける事はできても、それを受け取るのはあくまで僕の脳、という事か。

 日記の男も、同じように夢を見たのだろう。

 いや……、

 何かが脳裏に引っかかった。

 瞬間、僕の頭に一つの道筋が浮かび上がる。

 さっき掴みかけた、その正体がこれだ。

 妙な確信と共に、思考の奔流が意識に流れ出す。

「君が生まれたのは、どれくらい前だ?」

「稼働した日という意味なら、5978日前、西暦2067年の8月10日になるわ」

「十六年前だね。……そうか」

 ドミノ倒しのように、視界が開けていくような感覚。

 僕の思考は漸近線を描き、過去と真実に向き合おうとする。

「初めからここに人間はいなかった、そうだね?」

 僕は言った。

 彼女は、無表情だ。

「……一人を除いて」

 彼女が伏せ目がちに言った。それは、僕がそう思っているだけだろうか? それとも、彼女の感情表現なのか?

「君を作った人、だね」

 ゆっくりと彼女が頷く。僕は、自分が多少興奮している事に気が付いた。

 目の前にいる彼女は、知っているのだ。僕の知らない事。他の誰もが知らない事を。

 それは、彼女は、この都市の遺産にも等しい。

 視界が切り替わる。

 朝と夜、その境界上にある玉座。

 純白のドレスを身に着けた彼女は、やはりクイーンだ。

 僕は、ジャック、ネイヴ? ああ、そうだろう。

 過去を暴くなんて、僕にはおこがましいかもしれない。

 ああ、けれど……、

「聞かせてくれないか。知りたいんだ、ここに誰がいたのか、何が起きたのか、それから……君の、話」

 僕は、彼女にそう伝えた。

「……ありがとう」

 彼女が小さく言う。

 僕は何も言わず、彼女の言葉を待った。

 神秘的な太陽の月明かりが、僕らを照らす。

 朝と、夜。

 不可思議と、真実。

「あなたに、メッセージがある」

 取り落とされたバトン。

 僕らは、いつも多くを取り零す。

「それを伝えるのが、私に遺された最後のタスク」彼女は、無表情だ。

「ありがとう」僕は言う。

「それは、この身に余る栄誉です、女王」

 彼女の手をとって、僕は小さく口づけをした。

 だれにも伝わらない。

 どこへも行かない。

「もう、時間のようね」

「また会えるかい?」

「貴方が、望むのなら」

「君の、名前は――」

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