第三章 Bright

 "人生はひどい事と更にひどい事の選択の繰り返しさ。"



 外は暗かった。地下でも日が沈むというのは奇妙な感じだ。電灯が道を照らしていた。ここに入る前に合わせたアナログ時計によると、時刻は十九時過ぎだ。

「地上の太陽の運行と、同期しているんだね。公転周期も考慮してあるんだろうか」

「さあ?」ソフィアは相変わらずそっけない。

「もし衛星と通信しているなら、ネットワークに接続できる」

「別に、必要ないと思うけど」

 僕は息を吐いた。ソフィアとの会話は、氷山でロッククライミングしているみたいに感じる。

「どうする? この後」僕は歩きながらソフィアに尋ねる。

「別れて行動しましょう。私はあっちのビル」ソフィアは指差した。

「危険だ。日記の男が地上に出たとは限らない」

「私の心配?」

「ああ」

 ソフィアは短くため息をついた。しばらく彼女と顔を見合わせたが、先に視線を外したのはぼくだった。こういう時、彼女の眼差しには妙な力があるように思う。

「……分かった。気をつけて」

「あなたこそね」


 ソフィアと別れ、一人で道を歩く。

 いつの間にか、息が白くなるほど寒くなっていた。

 歩きながら、消えた住人の事を考えていた。

 いかにして彼らは姿を消したのか。考えうるのは二通りだ。即ち、地上に出ていったか、この地下に隠れているか、この二つだ。

 地上への出口が一つ、というのは有り得ない。送風口だって必要だろう。しかし、半年間の時間があったとは言え、住人全員が地上に出て、それが露見しないというのは少し考え辛い。あるとすれば、秘密の出口だろう。

 そもそも地上に出れば、身元を質されてしまうだろう。このご時世、身元を隠して生活するのは難しくないが、これも住人全員分の工作をするとなるとかなりの手間だろう。

 となると、やはりまだ住人はここにいるのだろうか。居住区のどこかに秘密の地下室への入り口があって、住人たちは今でもそこで暮らしている、なんて話も有り得なくは無いだろう。地下空間に地下室を造る、というのは何だかマトリョーシカのようで面白い。この場合、天井に造っても地下室だ。一人で鼻を鳴らした。

 そういえば、ソフィアの所属先から依頼を受けるようになる前はずっと一人で仕事をしてきた。思えばその頃に比べると信じられないくらい、僕は彼女に助けられている。最初に自覚した時は多少危機感を覚えたものだが、今ではあまり気にならない。むしろ、ソフィアのアシストが無くなる事の方に危機感を覚える。昔も何度かパートナーを組んで仕事をした事はあるが、たいていは一度きりだ。ソフィアは、僕にとって特別な存在だとさえ言えるだろう。

 ビルの入り口が見えてきた。しかし、中は暗い。もしかしたらとは思っていたが、こちらもシステムがダウンしているらしい。

「ソフィア、聞こえる?」僕は無線で言った。

「うん」

「こっち、システムが落ちてるみたいだ。ドアが開かない」僕はビルの周囲を歩きながら言う。

「こっちもそう。どうする?」

「中に入れないか調べてみる」

「分かった」ソフィアが言った。

 僕は、ビルの周りをぐるりと一周する事にした。どこか開いている窓がないか見ながら歩く。最悪、窓か入り口を破壊する事になるかもしれない。

 不意に、視界の端で動く物が見えた。草むらの方だった。

 風で草が揺れているのかと思ったが、そうではない。

 何かいる。僕はその場にしゃがみ込んだ。銃に手を当てる。

 草むらの一点を注視する。動きは無い。見間違いだっただろうか?

 物音がした。ゴーグルに写った視界が動きを感知する。僕は銃の安全装置を外した。

 あれを使うべきだろうか――

 そう思った瞬間、視界に何かが飛び込んでくる。

 それはまっすぐ、羽音を立てながら僕に向かってきた。僕は、咄嗟に防御姿勢を取る。

 そのまま、黒い物体が勢い良く衝突してきた。鳥だ、と判断した。

 ばさばさ、と大袈裟な音を立てて鳥が羽ばたく。僕の後方に着地したようだ。僕は舌打ちをしながら体勢を立て直し、そいつを睨んでやろうと後ろを向く。一羽のカラスが僕を見つめていた。

「はぁ……、っ!」僕がため息をついて銃をしまうのと、白いフラッシュライトが僕の目を覆ったのはほぼ同時だった。カラスが光ったように見えた。

 視界が戻った時には、目の前にカラスはいなかった。僕はまた舌を鳴らした。


 異変に気付いたのは、ちょうどビルを一周して入口の前に戻ってきた時だった。僕は、視界の隅の赤い警告の表示に気付いた。体温の低下を知らせる警告だ。気温の表示を見ると、氷点下を十度も下回っている。僕は上着のヒータを確認した。

 最悪だ。樹脂ボードで何度か操作しようとしたが、反応が無い。バッテリーの故障らしい。仕方ない。面倒だが、予備のバッテリーと接続すれば数時間は持つだろう。そう思い、僕はリュックを開けた。

「あ、しまった」

 そうだ。予備のバッテリーはソフィアに預けたままだ。困った事になった。僕は何度目かの舌打ちをした。

「ソフィア、ごめん」僕は無線で言った。

「どうしたの?」

「ヒータのバッテリーが故障した。一度エントランスの建物まで戻る」

「大丈夫?」

「心配ないよ。ありがとう」

「なるべく早く合流できるようにするわ」

「助かるよ」

 ソフィアは僕の事を心配してくれているらしい。それだけで、多少気分が楽になった。

 僕は来た道を引き返す。ポケットからハンカチを取り出して、左右に二、三回引っ張った。こうすればマフラーに変わる仕組みだ。原理は知らない。僕はそれを口元まで覆って歩き始めた。

 等間隔に設置された電灯が道を照らしている。なるべく体力を消費しないよう、手をポケットに入れてゆっくりと歩く。

 それにしても、マイナス十度とは……。

 ここに来た時から寒かったが、よもやこれ程とは思わなかった。あるいは、昼夜で温度差が出るような機構があるのだろうか。外気を取り込んでいるからと言って、ここまで気温が下がる事はないだろう。どちらにせよ、何か人為的な作用が働いている事は疑いようもない。

 一体、何のために温度を下げているのだろう。これだけの空間を冷却するとなると、かなり規模の大きい機構のはずだ。

 考えうるのは、やはり四季の再現だろうか。今は十二月だから、そう考えれば辻褄が合う。

 いや……。それは違う。僕は日記の内容を思い出す。季節の違いではないのだ。

 何かが引っかかる。

 避けては通れない違和感。消えた住人、日記の男、黒いカラス、この寒さ、そしてあのコタツ――。

 一つ一つは見逃してしまいそうな違和感だ。しかし、それらは全て繋がっている。全て一つの存在からほつれた糸なのだ。そして、僕の歩く道の下で、そいつは僕が来るのを息を潜めて待っている。そんな気がした。

 パーツを組み立てるのに重要なキーが足りていない……、

 そんな感覚だ。

 思考が発散する。

 手から零れ落ちる。

 僕の歩く道には、夥しい取り零しが落ちている。

 ねえ……、

 ねえ、どうして考えているの?

 そう尋ねられたのはいつだっただろう。

 そう尋ねたのは誰だっただろう。

 僕は答えない。

 傲慢なひと……。

 幽霊の声。

 その傲慢さが、あなたに何をもたらすか――

「消えてくれ」

 暗く冷たい空気に、僕の声だけが響いていた。


 建物の中は多少暖かかった。外に比べれば、の話だが。依然として温度低下の警告がゴーグル越しの視界の端に見えていた。

 電気が灯っていたのでゴーグルを外そうかと思ったが、一応着けておくことにした。危険が無いとは言い切れない。僕はホールの壁際を歩いた。来たときと全く変わらない、無機質な白い床だった。

 広いホール内に、僕の足音と息遣いだけが響く。歩きっぱなしで足が疲れてきた。僕は爪先の感覚を確かめるように歩く。

 くしゃみが出た。瞬きの回数が増えてきた気がする。どうにも最近、疲れやすくなってきたように思う。歳のせいとは思いたくない。

 僕は、最初に調べたモニター室の前までやって来た。一応、中を警戒しながらゆっくりとドアを開く。

 部屋の中は、最後に見た時と変わりなかった。僕は息をつく。

 また、くしゃみが出た。寒いからだろう。

「うまく行かないもんだな……」

 とにかく寒かった。僕は、コタツを使うことにした。電源の位置が分からなかったが、コードの途中にスイッチがあるのに気付いた。

 プラグを挿し、スイッチをオンにする。妙な動作を始めないかとしばらく観察していたが、心配は無さそうだった。大人しいもので、部屋の中で物音と言えば僕の呼吸くらいだ。

 ここに来るまでも、特に何かがいる気配は無かった。少し気にしすぎだろうか。いや、どれだけ慎重であっても、気をつけすぎるなんて事は無いのだ。

 恐る恐る足をコタツの中に入れる。

「おお……」

 思わず感嘆の息が僕の口から漏れる。これは確かに、とても暖かい。陽射しに当たっているような放射熱を足全体に感じる。とてつもなく安心感のある暖かさだった。

 まるで、母親の胎内のような……。

 いや、そんな記憶は無いのだが。

 ともかくこのコタツというのは人間に安らぎを与えるものらしい。僕は半分気が緩みかけていた。自分で思っているよりも僕は気楽な人間なのかもしれない、と感じる時がたまにある。

 ソフィアはどうしているだろうか。きっと、真面目に仕事を果たしているのだろう。なるべく彼女の足を引っ張りたくはない、僕は常々そう思っている。しかしまあ、なかなかうまくは行かない。そんなような事の繰り返しな気がする。思えば僕の人生でこれまでうまく行った事の方が少ないのだから、これで平常運転とも言えるかもしれない。

 こんな事になるなら、新しいジャケットを買っておけば良かった。古い物を捨てられないのは僕のよくない癖だ。けれど、そう……、

 この服は、ずっと前に僕に贈られたものだ。

 それ以来、捨てる事もできず騙し騙し、文字通り擦り切れるまで使い続けてきた。

 どうにも、うまく行かないものだ。

 彼女が僕に残してくれたものといえばこのジャケットくらいだ。それ以外の痕跡は、僕の中にしか見つけられない。

 とりとめの無い思考、回想。その流れ。

 声が聞こえる。

 何を呟いているのだろう。

 瞼が閉じる。

 ソフィアに、声をかけておくべきか……。

 集中する。

 そして、発散する。

 なんだか、懐かしい。

 聞こえない。

 何も。

 静寂。

 月。

 飛行。

 孤独。

 ここは何処?

 散らばった積み木のように……、

 面倒だ。

 何もかも。

 だから、

 手放した。

 もう、

 何も。

 聞こえなかった。

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