White
「将来の夢は?」
捨ててしまったこどものわたしの純粋さを思い返すたび、いつだって悲しくなる。
「看護師さんです!」
叶わなかった夢のことより叶えられなかった、叶えようとしなかった自分のことにこだわって、うまく自分を自分として扱うことが、向き合うことが、出来なくなってしまった。
わたしはもうあの頃のように、真っ白なキャンバスに、好きなように夢を描くこどもではなかった。
〇
ひどい夢をみて、汗だくで目が覚めた。枕もとで猫が跳ねて、わたしの手の甲をひとかきしてにゃんと鳴いた。
「……おはよう」
ねだられるままに餌をやり、カリカリという音を聴きながら時計をみた。午前九時。寝起きのわたしを二度寝へ誘惑する、いい具合の時間だった。今日は日曜日。学校は休み。家族は、弟の運動会に行ってしまったらしい。ひとりだ。ありがとう、あいしてるよ日曜日。
朝ごはんなんて要らない。けれどすぐにもう一度寝てしまおう、という気は起きなかった。夢の所為だ。
「将来の夢は?」
大嫌いな質問。囲われて、夢は夢はと問われる夢。またあの夢をみてしまうのではと、わたしにしてはすこしネガティブなことを考えたりして、だから、今日は二度寝はなしだ。仕方ない。
だからって、やっぱり朝ごはんなんて要らない。とりあえず、猫の餌皿を片付けて、わたしは部屋に籠って睡魔に負けてしまうのを避けるため、外出することにした。
日曜日の外は、やっぱりすこし、雑然としている。ひとりが好きなわたしにとっては、なんだか鬱陶しい環境。とにかく人のすくない場所へ、と歩いてみるが、どこもかしこも人、人、人。
やめよう。街は、やめよう。逆方向へ、回れ右。ひとつ路地へ入ってしまえば、そこは閑静な世界。人はいない、静かだ。野良猫が威嚇している可愛い鳴き声が心地いい。
歩いていると、どこからともなく歌が聴こえてきた。お店でもあるのだろうか。音を辿る。耳だけが頼り。スマホとにらめっこしなくてもどこへでもたどり着ける、そのあたりまえを、ひさしぶりに実感する。
「この辺だと思うんだけどなあ」
音は確かに近い。けれど、店らしき建物は見当たらない。さらに路地の奥へ。
––––––––––あった。いや、居た。音の主。
そこには、ギター片手に歌う少年。観客は二匹の野良猫と、わたし。一匹は添うように、もう一匹はすこし離れて。わたしは思いがけず目の前に現れた音の主との近さに驚きつつ、同時になにかとてつもない距離を感じた。
少年は、わたしに気づきつつ、歌をやめない。歌う。静かな曲だ。鼻歌。歌詞はない。できていないのだろうか、けれど迷いのない指が奏でる音は、揺るぎない。
すうっと消えるようにやむ音。にゃん、ひと鳴きに我に返り、わたしは考えるより先に拍手をしていた。
「ありがとうございます」
微笑んだ少年のあどけなさに驚く。あんなに落ち着いた、静かな、静かな音を生んでいた彼のことを十五、六の高校生くらいだろうと思っていたわたしの目の前に居たのは、どうみても十二、三歳の男の子だった。
「わ、え、すごくよかった、びっくりした」
もっとなにかあるだろう、けれどひとつも言葉にならなかった。
「あなたは初めてのお客様です」
「いや、そりゃ、ここじゃあ人なんて通らないよ」
わたしだって、今日の気まぐれがなければここまで足を踏み入れたりしない。
「音が聴こえてきて、すごく静かで、でも響くものがあって、探さずにはいられなかったの。ねえ、なんでこんな路地裏で歌うの?」
きっと路地をぐるぐる回るようにしながら進んできたのだろう、だからわたしのところまで、届いた。そうだ、思えばわたしは店を探していた。店内で流れる音楽だと、思ったのだ。つまりそれくらい、完成されていた。
けれど無神経だったかもしれない。少年のひとみに影が差したのを、わたしは見逃さなかった。
「……うん、だって、馬鹿にされるから」
「あ……」
夢、みたばかりの悪夢が脳裏をよぎる。
「ねえ、もう一曲聴きたい」
「あ、もちろん、いいですよ!」
「やった、それじゃあ、いちばん好きな歌を」
いちばん、くちびるのなかでつぶやいて、少年はギターに指をかける。––––––––瞬間、やさしい音。弾む、ゆったり、弾む。風が吹く。こんなにやわらかい風があることを思い出すのはいつぶりだろう。
楽しそうだ。足でリズムを刻んで、すこし揺れる身体。野良三毛が機嫌よさそうに喉を鳴らした。こんなにおだやかな気分になれるのはきっと、少年の歌声のなめらかさのためだ。
あらためて少年をみる。鼻歌でこんなに声量があるのがすごい。ギターも、一切つまることのない指の動きをみるに、相当練習したのだろう。
––––––––––ああ、こんなにまっすぐなのか。きっと彼には、まっすぐに目指すものがあるのだろう。馬鹿にされた、言った時のあの一瞬の影。それでも歌うことをやめていない。
比べることもおこがましい。わたしは、向き合うことすらやめてしまったから。
終わりゆく歌は、あまりにやさしい。だからだ、自然と涙が溢れる。少年が目を見開く。でも、やまない歌。止まらない。泣くなんて、慰められるなんて、卑怯だ。不誠実なわたしの歪みをまざまざとみせつけられたような気がした。あの頃のわたしに。
拍手。わたしの足元に、野良はちわれがすり寄って、そのふわふわした感触までやさしくて、また涙がこぼれた。
「あ、あの、どうして泣くんですか……?」
ギターをそっと置いた手が、わたしの手に伸びる。その加減のやさしいこと。こんなに人にやさしくできることさえ、忘れていたような気がした。
「うん、あんまりやさしくて、なんか、泣いちゃった」
「なにか嫌なことを思い出したりしたのかと……よかった」
「そんな風に気遣えるなんて、君ほんとうにすごいよ」
「そうなんでしょうか……きっと自分がしてほしいことだから、こうすればいいんだってわかるだけなんです」
「……っ、」
違う。してほしいことを素直に誰かに出来ることが、もう、すごいんだ。
すこし嗚咽がおさまる。わたしはせめて、聴かなければならない。
「ねえ、どうしてここで歌うの?」
「…………」
「わたしは、馬鹿にしないし、君を責めたりしない。よかったら、話して?」
「……公園で、歌ってたんです、前は。えっと、一週間前、くらいまで。たまに近所の人が聴きに来るんです、それが嬉しくて。でも同級生が、公園で歌うなんて、お前みたいなのがギターを弾けるなんて、おかしいって。だから、逃げてきたんです」
ひと呼吸、少年は話す。
「僕はいつか、歌手になりたいんです。今はその練習。でも、あの公園から、あんな風に言ったやつから、僕は逃げた。こんなに弱くて、これからどうするんだって思ったら、人前で歌うのが、怖くなって、だから、ここで」
ぽつり、ひとつぶ。涙だった。
「逃げちゃったんだ、って思ったら、びっくりして。言い返してやればよかったんだ、おかしくないって」
『看護師なんて、やめなさい。あなたにそんな責任感があるの?』
「ねえ、聴いて。攻撃から身を守るのは、当たり前だよ。君は自分を守ったんだ、褒めていい。それにね、君は全然弱くない。そんなやつからは、逃げていいの。でも君は、夢からは逃げてない。だって、君はここで歌ってる。わたしが証人だよ」
「しょう、にん……?」
「ああ、えっと、わたしが証明できるよ、証明するよ、ってこと」
「そっか、僕は、弱くない。弱くないんですね」
ごしごし、強く目をこすった少年が、立ち上がる。
「ありがとうございます、話を聴いてくれて、ほんとうに、ありがとうございます」
純粋なお辞儀。でも、感謝したいのはこっちのほうだ。
「ううん、こちらこそ、ありがとう。わたし、応援してるよ」
わたしのなかで、ひとつなにかが救われたことは、言わない。
「僕、
「
「はい」
「来週も?」
「はい、やっぱりまだすこし、怖いから」
「じゃあ、来週も来る」
「ほんとうですか!?」
「うん、来るよ」
「やったあ、楽しみです」
無邪気な笑顔の少年が、まっすぐに夢と向き合う糧に、すこしでもなればいい。
そう思いながら、次への指切りを交わした。
fin.
カラーパレット 藍雨 @haru_unknown
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