幻想の中(3)
西王子家の庭の、白い敷石の遊歩道を、ギンに導かれて妻と歩いた。
遊歩道のずっと先を、月の化け物とミ=ゴを撃退した猫たちが隊列を組み、行進していた。
「見てよ、あれ……」妻が指差す。
猫たちの足は、だんだん地面から浮き上がり、やがて敷石の代わりに夜の空気だけが支える階段を踏んで天の川を駆け上がり、星空の向こうへと帰って行った。
「ああ……すごいな……」
つかの間、僕らとギンは足を止めて、凱旋する猫たちを見送った。
藤棚の手前まで来ると、その向こうは庭園ではなく、図書館の入り口になっているのが見えた。
ギンの後をついて藤棚の下から図書館へ入っていくと、背後で庭園の景色が閉じた。
「……ここへ来た時の図書館じゃないね……」
「うん……」
だが、僕らには見覚えがあった。
……正確には、僕には僕の図書館の見覚えがあり、妻には妻の図書館の見覚えがあったようだ。
幼稚園児くらいの男の子が一人、児童書コーナーで絵本を読んでいる。
制服を着た、小学校高学年くらいの女の子が、絨毯敷きの床に座り込んで本を読んでいる。
それは、図書館の記憶。
* * *
……いつものように、僕は母と一緒に図書館に来ていた。
母が本を返して新しい本を借りる手続きをしている間、その日の僕は、いつもと違う場所で本を読んでいた。
そこにある本は、今まで図書館で読んでいた本とはまるで違っていた。
字が大きくて、少なくて、簡単な字ばかりで、おまけにページがとても、すかすかだった。
その代わりに、色彩豊かな絵が、ページいっぱいに大きく描かれている。
ああ、とても読みやすい、と思った。
それまでは、僕はいつも、母が自分で借りる本を選ぶのにくっついて行き、そこにある本を読んでいた。
ただ真っ白いページに、難しくて小さな文字がびっしりと並んだ、分厚い本。
そんな本ばかり、読んでいた。
だからその日、初めて子供向けの本を読んだ僕は、世の中にはこんな本もあるのかと、とても驚いたのだった。
「タカちゃん、貴行(たかゆき)」
母が僕を呼びに来た。
「あら、その絵本が読みたいの? だったらそれも借りてゆきましょう」
「うん」
絵本を抱えて、母と一緒に貸し出しカウンターへ向かいながら、だけど僕は思っていた。
──でもおかあさん、ぼくはいつもおかあさんがよんでいるような、字ばっかりの本も、はやく、おかあさんみたいに読めるようになりたいなあ。きっとおもしろいだろうなあ。
* * *
……新しく出来上がった小学校の図書室は、床の全面に絨毯が敷かれていた。
その絨毯敷きの床に、べったりと座り込んであの本を読んでいた、その感触を今でも私は覚えている。
たまたま手に取ったその本の、たまたま開いた途中のそのシーンから、夢中になって読んだ。
表紙に描かれた、男の顔。
飛行服と飛行帽を身につけ、白いマフラーは、だが、首に巻かれてはおらず、その代わり血に染まって眼帯のように右目を覆って巻き付けられている。
ゼロ戦乗りだった彼は、空戦の最中(さなか)に敵の機銃掃射を浴びたのだという。
直撃を喰らって機体の風防は吹き飛び、彼自身も右側頭部に銃弾を受けて、右眼の視力を失った。
そして彼は生還した。
激しい出血にも自分のマフラーで傷口を圧迫止血し、時折意識を失いながらも操縦桿を握って飛び続けた。
実に彼は4時間半にわたって太平洋上を飛行し、ラバウル基地に無事着陸した。
傷だらけの体と、傷だらけのゼロ戦で。
そんなことが本当にあったなんて。
作り話でもなんでもないなんて。
信じられなかった。
本棚のすぐ前、絨毯の上に、ずっと座ったまま読んでいた。
私のすぐ後ろに椅子とテーブルがあったというのに、そこまでたどり着くより先に、その本の中に私は完全に取り込まれていたのだ。
「ああ。まだいたの、律子ちゃん」
図書の先生の声に、我に帰った。
「ごめんね、図書室、もう閉める時間なの」
図書室のドアのところから、先生が覗き込んでいる。
いつの間にか、図書室にはもう私しかいなかった。
「……」
黙って、こくりとうなずくと、本の表紙裏のポケットから図書カードを取り出して名前を書く。
クラスごとに分かれた図書カード箱にカードを入れて、出口へ向かった。
振り返ると、窓から差し込む黄昏色が、図書室の中を照らしている。
片眼を失くしたゼロ戦パイロットの本を抱いて、私は図書室を出た。
それが、『大空のサムライ』と呼ばれた伝説のパイロットが書いた本だと私が知るのはもっとずっと先、私が大人になって、新聞でそのサムライの死亡記事を見た時だった。
* * *
「でも、これって別々の図書館だよね」
「うん。私のは小学校の図書室だけど、君のこれは……市の図書館だったっけ?」
「時間軸はだいたい同じだよね?」
「……どうせ私の方がずっと年上ですよ……」
「この頃から既に、こういうのが好きだったんだね」
「いや、どうかなぁ? あの本は確かに強烈な印象があったのは覚えてるけど……」
あごに手を当てて考え込む妻に、にゃあ、とギンが呼びかけた。
「ああ、待って、待ってよ」
すたすたと出口へ歩いてゆくギンを追いかけて、僕たちは記憶の中の図書館を後にした……
* * *
下宿の畳の上に座って、梶尾が僕の原稿を読んでいた。
いつものように軍服姿で、あぐらをかいている。
僕は文机の前に座ってそれを見ている。
原稿用紙の最後の一枚まで、梶尾は黙って読み終えた。
「どうだった?」自分でも不思議なくらい、平静な気持ちで、そう尋ねることができた。
ひと呼吸の沈黙をおいて、梶尾は答えた。
「……よく書けている。そう思う。ただ僕は小説については素人だから、一般的な世間の評価はどうなのかは何とも言えないが」
「それを公表するつもりはないんだ」
文机を背にして寄りかかり、僕は梶尾に告げた。
「これはただ、僕が書きたかったから書いた。僕が、僕のために書いた。それだけだ。この先も、誰にも見せるつもりはない。その原稿は、君に預ける。……これでもう、この事件のことは僕には充分なんだ。このまま君が処分してもらっても構わないし、しかるべき筋に提出するなり、報告に使うなりしてもらっても構わない……」
「その必要はない」
きちんと原稿用紙の束をそろえると、僕の方に向けて、梶尾は畳の上を滑らせて原稿を返した。
「でも……」
「報告なら既に僕の方から全て済ませてある。未だ不明な点がないわけではないが、それについて我々が今後どう動くか……いや、動いているのか動くことはないのかについても、一切、君に話すつもりはない」
「だけど、これはかつて西王子家で起きた……」
「これは小説だ」
梶尾は僕の目を見据えて、言った。
「小説とは創作であり、想像の産物だ。西王子家の記憶すらも人々の間から忘れられた今、この小説が公表されたところで我々は何の痛痒も感じない」
──忘れさせたのは、そう仕向けたのは、君じゃないのか。
そう言おうとして、僕は口を閉ざした。
言ったところで、お互いが傷つくだけだった。
恩知らずになる気もなかった。
「……本当にこれを、処分しなくてもいいのかい?」
畳の上に原稿を残して立ち去ろうとする梶尾に、もう一度僕は聞いた。
「君が処分したければすればいい。僕に止める権利はない。ただ僕は、本を焼き、儒者を穴に埋めた愚か者になりたくないだけだ」
部屋を出ようとして、ふと、梶尾は僕に背を向けたまま立ち止まった。
「これだけは、言っておく。君は誰にもその原稿を見せてはいない。だから僕も、それを読んでなどいない。……そういうことだ」
「あ……、ごめん……」
自分の軽率さに歯噛みしている間に、彼は行ってしまった。
それが、僕が梶尾の姿を見た最後だった。
僕は文机に向かうと、大判の封筒を引き出しから取り出して、小説のタイトルと自分の名前を書いて原稿を入れ、押し入れの一番奥の行李の中にしまい込んだ。
「……やっぱり、君は神原泰明さんみたいだねえ?」
「……そう……なのかな……」
「生まれ変わりなのか……、記憶を受け継いでいるだけかも知れないし、『夢の回廊』を通じてつながっているだけかも知れないけど」
「……それって、区別できるようなものなのかな?」光彦の言葉を思い出す。
「そうか、そうだね……」
どこからか、また、白い猫の声が聞こえて、それから……
(続く)
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