幻想の中(2)

 帰る方法と、それからギンも探さないといけない、と妻は言った。

「帰る方法はもちろん探すけど、ギンは絶対条件なのかなあ」

「だって私たち、ギンを探しに来たんでしょうが!」

「でも、言っちゃあ悪いけど、ギンはうちの猫じゃないし」

「ひどいなあ! ギンが蔵に閉じ込められたのは私たちのせいなのに!」

「それも確定じゃないような……」

 だが、言い争ってどうなるものでもない。

 ドアを開けて、二人で部屋を出た。

「え……?」

 そこはもう、屋敷の外だった。

 目の前で、手入れの行き届いた緑の芝生が月明かりに照らされている。

 僕の手が握っていたドアノブの感触がない。

 背後にあったはずの部屋も、壁も、すべて霞となって揺れて、消えた。

 芝生の上には白い敷石をしいた遊歩道があり、その先には藤棚と休憩用の椅子とテーブルがあるのが見える。

 かたわらの、静かに水をたたえた池には蓮のような丸い大きな葉がいくつも浮かんでいる。

 満月と、降るような星空の下、西王子家の庭園がどこまでも広がっている。

 だが、その見事な庭の眺めよりも、僕らの目を引き付けるものがそこに置かれていた。


「天体望遠鏡……」


 すらりとした白い円筒が三脚に据え付けられ、高く、夜空を指している。

 すぐ側に、折りたたみ式の小さな椅子が2脚。

 片方の椅子の上に、本が置かれている。

 妻が歩み寄り、手に取る。

「『春の星空』、だって」

 他には誰もいないが、誰の物かは、言うまでもなかった。

「すごいや、先生。すごくよく見えますよ」

 妻が望遠鏡を覗き込み、そんな台詞を言ってみせた。

「……よくそんな恥ずかしいことができるなあ……」

「なんで!? だって、ここはその場面でしょ!? あの小説の世界そのものなんだから!」

「だからってさあ……。それとも、ほんとに星が見える?」

「いや、だって、操作がわからないし。下手に触ると壊しそうで……」

「ちょっと見せて」

「うん。……いや、違う! そうじゃない! ……ほら、先生も見て」

 わざわざ途中から、少年めいた作り声で言う。

 だが、これほどの星空だというのに、覗いたレンズには暗闇のほかに何も映っていない。

「うーん、取扱説明書とかないのかなあ」

「だからそうじゃなくてだなあ!」

「えぇー?」

「ほら、先生も見て」

「僕は言わないからね」

「じゃあ私が代わりに言ってやる! 『ああ、これは綺麗だ。でも、僕にはどれが何の星だか、さっぱりわからないや』」

 妻の独白を聞き流しつつ、僕はレンズを覗きながら、なんとかよく見えないだろうかと手元のネジをいじってみる。

 再び少年の声を作って、妻がその台詞を口にした。

「僕だってわかりません。けど……」


──けど、そうやって見ていると、まるで手を伸ばせば届きそうな、すぐにでもそこへたどり着けそうな気がしてきませんか?


「え……?」

 やわらかく優しげな少年の声が、僕の胸に刺さった。

 望遠鏡から目を離そうとして、離せなくなった。

 レンズに映し出された、もの。

 その向こうの、世界。

 光彦がたどり着きたいと願った水星の向こう……いや、水星から太陽を経てその正反対のはるか彼方、今はもう惑星とすら呼ばれなくなった、深淵の彼方の星が、僕の目の前にあった。

 そびえ立つ、いくつもの青い石造りの塔からなる都市と、その間を、見たこともない構造の体を持つ奇怪な生き物が飛び交っている。

 まるっこい頭部に短いアンテナのような角を何本もはやし、淡い桃色の甲殻類めいた胴体と脚部、それから、コウモリのような皮膜のついた翼。

 不格好で、一見ひ弱そうに見えても、その翼がひとつ羽ばたきすれば、星々の間の深淵を越え、人間の持つ技術など及びもつかない速度で駆け抜けてゆくことができる。

 そいつらが、ひときわ高く青い塔の前にぞくぞくと集まり、塔の上を見上げている。

 声を持たない代わりに頭部の色合いを目まぐるしく変えながら、何やら言葉を交わし、話し合っている。

 待っているのだ。早くお出ましにならないかと。

 自分たちのかしづく、王が。

 なぜかその「言葉」が、僕にはわかった。

 目の前に広がるその異様な情景は、もはや天体望遠鏡を通してみる遠くの景色ではなく、そこにいる僕が、僕の眼で見ている光景に他ならなかった。


──そこにいる、僕が?

──僕の眼で、見ている?



 僕の中の『回廊』が開いている。

 手を伸ばしたら、届いてしまった。

 すぐに、そこへ、たどり着いてしまった。

 『夢の回廊』を通り抜けて……



 呆然と見つめるだけの僕の前で、ひときわそいつらの頭部が興奮して色めき立ったかと思うと、青い塔のバルコニーから『王』が姿を現した。


 異形の生き物どもがひしめき合い、喝采を叫ぶ、その中で。

 その『王』だけは、ただ一人、人間の姿をしていた。


 王の、やや大きめの黒い瞳が僕を見ている。

 彼だけは、僕がそこにいるのを知っていた。

 その白く長い指先の手を差し伸べて、彼は僕を呼んだ。


「ようこそ、ミ=ゴたちの王国へ。……先生」



 十六歳のままの西王子光彦が、そこにいた。



     *    *    *



 いつの間にか、光彦に導かれ、バルコニーの上で僕は彼と向かい合っていた。

「僕の王宮へようこそ。先生」光彦は繰り返した。

「ちょっと、待って……」

 めまいを起こしそうになるの必死でこらえて、僕は言った。

 光彦の背後、バルコニーにつながる室内がめまいで見えない、と思ったが、青いカーテンで仕切られているだけだった。

「その……確認を、させてもらってもいいかな? もし可能ならば、だけど。その方が、話がしやすいと思うんだ」

「どうぞ」

 いくつか深呼吸をして息を整え、それから、頭の中に交錯する推論をまとめながら声に出してみた。

「……君がここに存在している可能性は、いくつかあると思う。まず、泰明さんが小説の中で、君の存在全てが滅ぼされたと書いたのは間違いだったということ。泰明さんの創作、あるいは勘違いだった、と。もしくは、本当に君の全ては滅びたけれども何らかの方法で復活した、ということ。……それから、今ここにいる君そのものが幻で……僕を含めたどこかの誰かが夢見ているだけの存在で、実際にはやっぱり君はもうどこにもいないのだ、という」

「三番目のケースだった場合、僕は先生にイエスともノーとも答えることができる上に、ここにいる誰にもそれが真実なのか嘘なのかも確かめようがないんですよ?」

「それももちろん、念頭に置いた上で、君の答えを聞きたいんだ」

 光彦の黒い瞳を、僕は見据えた。

「それから……、僕は君の先生じゃない」

「そうでしょうか? だって一目で、僕が僕だとわかったじゃないですか。一度も会ったことがないのに」

「それはあの小説を読んだから」

「でも、同じ色の魂をしている」

 光彦もかがみこみ、僕の眼を覗き込んでくる。

 深淵よりも深い瞳の黒に、吸い込まれそうになる。

「……本当に、それだけのことで君は、僕が泰明さんだと思っているのかい? ……違うよね? 君はわかっていて、そう言っているだけだ。僕を動揺させようとしているのか、それとも君がそう思いたいだけなのか、わからないけど。……もしかして、そう考えるのが面白いから……?」

「そもそも人は、自分がいったい誰なのかということを、どこまできちんと認識できるものなんでしょうか?」

 何かに挑むように、光彦は僕から目をそらすことなく答えた。

「僕自身の認識でいいのなら、答えはふたつめです。『千匹の仔を孕む森の黒山羊』の怒りに触れて、僕の全ては滅び去った」

 まるで魔法のように、光彦の手の中に瑠璃色の表紙の本があらわれた。

「先生がここに書いたのは本当のことです。……でも、どうしてそれがわかったんだろう? 先生には知りようもない、その場にいるはずもなかった場面までもが、すべて事実に即してこの本には書かれている」

「君にも、わからないことはあるんだね。……そこに書かれている全てが事実だとは、わかっているのに」

「自分はわかっていないのだと認識することから、わかることは始まる。……『黒山羊』は、三千代は、あれが不幸な行き違いだったとわかったんです。三万年ののちに。それで、ようやく僕は許してもらえたんです」


……三万年?

……不幸な行き違い? 「あれ」が?


「それからもう一度、僕は彼女の生んだ仔になって、この星に来て、ミ=ゴの玉座についたんです」

「……ごめん、ちょっと……」

 再びめまいを起こしそうになりながら、僕は光彦の言葉を遮った。

「あのさ……、本当に君の言う通りなのだとしたら、今は西王子家の事件から三万年後ってことになるんじゃないのかな? それと、君が三千代が生んだ仔になったって言うのなら、それは小説に出てくる青い仔じゃなくて……」

「いいえ、違います。その青い仔が、僕です」

「だけど……じゃあ、三万年っていうのは……」

「小説家が自分の書いた小説の中の出来事を書き変えるのに、小説内で経過したのと同じ時間が必要ですか? テキストファイルの該当部分を修正するだけで済みますよね? それと同じことです」

「は……」

 あまりに光彦が、こともなげに言うので、なんだか僕まで笑いたくなってきた。


……三万年。三万年か。


「君にとっても三万年は長かっただろうけど、……いや、長かっただろうなんて、僕が言うのもおこがましいな。とにかく、君と三千代にとっては三万年でお互い納得したんだろうけど、それにしては西王子家の人々が被こうむった犠牲というのは、あまりに……」

「それでも西王子家が『黒山羊』に捧げてきた生贄の数は、あの日、海に沈んだ一族郎党の数とは三桁違いますよ?」

「……本当にそうだとすると、自業自得にしてもまだ債務超過だってことになるのかなあ」

「……なるほど、確かにあなたは先生とは違う。先生はね、僕がそういうことを言うと、ひどく怒るんですよね。……言ったことはないけれど」

……そう、君は言わないのだ。そういうことを、先生には。

「うん。……なんだか僕は、君のことを責めるよりも、よくここまで君はたどり着いたねって、そう言ってあげたい気がするんだ。だって、自分の持つ全てを引き換えにしてでも深淵に手を届かせたいという君の願いは、こうして本当に、叶ったんだから」


 それでもぜんぜん足りなくて、三万年を支払ったのだ。


「もうひとつ、僕が泰明さんと違うのは……、泰明さんは君を、三千代とおじいさんに狂わされたって言ってたけど……彼はそう思いたかったんだろうけど、でも僕は、そうは思わなかった。君が初めて登場する場面を読んだ時は、僕も、君がおじいさんの傀儡(かいらい)で、自分の意志もなく完全におじいさんに操られているだけなのかと思った。でも、そうじゃなかった。君の全ての選択は、おじいさんではなく君の意志だった。君は傀儡にされるどころか、生まれ落ちたその瞬間から、おじいさんの存在を出来る限り小さく封じ込め、その上で、彼の全てを利用した。それが、君が君として生きるための、ただ一つの取り得た戦術で、そうして君は誰のものでもない自分の人生を、自分自身が夢見て望んだ生き方を勝ち取った……」


 おそらく、それは、後にも先にも人類の誰一人として手を触れることすら出来なかった、彼方の領域。

 だが、それはなんて冷然たる勝利だったろう。

 善も、悪も、肉親への愛も、他者への情も、現世への執着すらも、そんなものは最初から彼にはなかったのだ。


「そういう解釈を聞かされれば、だからこそ僕はおじいさんと『黒山羊』に狂わされたも同然だと、先生はそう言うでしょうね」

 光彦が、懐かしそうに笑い、つられて僕も少し笑った。

「面白いなあ。なんだか西王子光彦本人じゃなくて、同じ小説を読んだ者同士として、登場人物の批評を話し合ってるみたいな気がする」

「そんなふうに面白がっていていいんですか? この状況を」

「え? だめなのかな?」

「だってもうじきこの『回廊』は閉じますよ? たまたま良い道具立てがそろっていたところへ、『言葉』を投げたら開いてしまっただけなのだから。不安定なのはどうしようもない」

「そうか……それは残念だなあ」

「閉じたら閉じたで、反動も大きそうですよ。……それに、本当に、あなたはその体のままでいいんですか?」

 光彦は笑いながら、背後を振り返る。

 手も触れていないのに、バルコニーと室内を隔てていたカーテンが開いた。

「もしそうお望みでしたら、あなたの脳髄はこのままこちらでお預かりしますが。いかがですか先生?」



「え……?」



 濃紺に近い、深い青のカーテンで隠されていた、ミ=ゴの王宮の室内で。

 壁一面に棚を設け、異様な形の金属容器がずらりと並べられている。

 銀灰色の円筒形で、それぞれ違った、複雑な形状の突起がごつごつといくつも付いている。

 突起がなければ、色といい大きさといい、ちょうどバケツのように見えただろう。

 金属容器のうちのひとつだけは、突起の全てが黒いコードで壁面の大きな黒い機械に接続されている。

 コードが呼吸をするかのように、白い光が金属容器から壁面の機械へ、壁面の機械から金属容器へと、絶え間なく流れている。

 他の容器はコードにつながれておらず、光を放つこともなく、静まり返っている。

 呆然とそれを見つめる僕の背後からは、今も絶えず、『王』を讃える臣民たちの声が聞こえている。



──声が、聞こえている?



 発声器官を持たない彼らの『声』が、なぜ、今の僕に『聞こえて』いるのか。

 彼らに背を向けたままの僕が、彼らの発する『声』を知覚し、理解できているというのならば。


 発声器官と聴覚の代わりに、頭部の色合いをさまざまに変えて言語とし、指向性をもってその言語を飛ばし、かつ、あらゆる方角からやってくる色を捉える敏感で精緻な器官が、頭部の全周にわたって分布している……。



……それが、いまの、僕。



 もちろん、それが頭部だけですまされるはずもなく。


 ためらったけれども。

 やはり、自分で見て、確かめずにはいられなかった。

 うつむき加減に目線を下げた。



 無骨で奇怪な、甲殻類のような手からは想像すらできない程の、繊細で精密な手捌(てさばき)でもって摘出された僕の脳はいま、金属容器の中に収められたまま、そいつらと同じ異形の肉体をあやつっているのだった。



     *     *     *



「……けど、そうやって見ていると、まるで手を伸ばせば届きそうな、すぐにでもそこへたどり着けそうな気がしてきませんか?」

 作り声の、だが聞き違えようのない妻の声に、僕はようやく、振り払うように望遠鏡から目を離した。

「あ……っ」

 たまらない吐き気がこみ上げてきて、手で口元を押さえる。

 その手が、あの甲殻類めいた手なんじゃないかと、視界の中でだぶって見えた。

 膝から、腰から、体じゅうから力が抜けて、崩れるように倒れ込む。

 その動作すらも、ぎしぎしと、あるはずもないところにある関節がきしむかのようで、背負ってなどいないはずの翼の重さに押しつぶされそうで、倒れるというよりこのまま壊れていくような気がした。

「ちょっと! 大丈夫!?」

 大丈夫じゃない、と、答えることすらできない。

 いつまた、『向こう』に引っ張られてしまうか、またあの体になってしまうのではないか。

 いや、今もまだ僕は、あの体に閉じ込められたままなんじゃないのか。

 僕の脳髄も、あの『容器』の中で。

 自分で自分の体が、まるで掴み取れない。

「……やだ……、しっかり……」

 けいれんするように震えて、吐いた。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

「しっかりしてよおっ!」妻が必死で、僕の体を激しくゆさぶっているのを感じた。

 もう吐くものすら残っていないのに、やっと気づく。

 それでようやく、少し楽になった。

 僕の体が、ここにあった。

「ああ……。うん……。もう、大丈夫」やっと、弱い声が出せた。

「な……何を見たの?」

 ようやく振り払った光景がまた眼前をよぎる。

「……うげえっ」

「わああ、ごめん! もう聞かない! 聞かないから!」

 妻が背中をさすってくれる感触に意識を集中させる。

 そうしないと、また『向こう』の体に持っていかれそうな気がしてならなかった。

「……ごめん……。私が、あんなこと言ったからだ……」


──たまたま良い道具立てがそろっていたところへ、『言葉』を投げたら開いてしまった……。


 光彦も、そう言っていた。

 あの小説の中の会話が、『回廊』を開けた。

 妻にも、それがわかったのだ。

 芝生の上に仰向けになって、息を整える。

 頭上には夜空に一面の星々と満月がある。

「あ……」

 目の前の、異様に大きな、月。

 月が、降ってくる。

 それから、星。

 『あいつら』のいる、星が。

 かすかに夜風が吹いて、すぐ側の池の水面を波立たせた。

 ざわり、と、風の色が変わる。

「えっ……」身を起こして、辺りを見る。

 水面に浮かんでいると見えた蓮の葉が全部、池に映る満月に変わっている。

 いくつものいくつもの、大きな月が池に浮かんでいる。


「『回廊』が、広がっている……」


 びしっ、と、天体望遠鏡が音を立てた。

 二人で身をこわばらせる、目の前で。

 甲高い音を立てて接眼レンズが砕けた。

 鏡筒の下からガラスのかけらが飛び散る。

 閉ざしていた虫カゴのふたが外れたかのように、レンズを失った筒先からあの甲殻類めいた脚が何本ものぞいている。

「ひっ……」後ずさろうとして、妻が尻餅をつく。

 僕は、動けなかった。

 再びガラスにひびの入る音が響き、今度は対物レンズが割れて夜空へ破片を撒き散らした。

 筒の上からも、ヤドカリが巻貝から足を伸ばすかのように、さっきと同じ脚がぞろぞろと飛び出してきている。

 僕が見た、僕だった、『あいつら』と同じ脚の……。

「に、逃げ……」妻に手を引かれて、かろうじて立ち上がろうとした時。

 ざばり、ざばりと、いくつもの水音が池から聞こえた。

「うわあっ!」

 池に映っていたいくつもの月を入り口にして、ぬるぬるした肌を持つ、灰色の影のような化け物が、水の中から次々と姿を現した。

 のっぺりとした顔の、表情がよくわからない。

 灰色の、ヒキガエルめいたそいつらが、ゆっくりとこちらにやってくる。


 反動が、届いたのだ。

 決して地球のこちら側からは見えない、裏側の月の世界に住む、狂気と悪意の塊たちの棲み家にまで。


 あわてて二人で池とは反対の方へ逃げようとする。

 その目の前で、天体望遠鏡が悲鳴のような音を立てて破裂した。

 白い円筒が紙のように引き裂かれ、その中から『あいつ』が出てきた。

 狭い通路からやっと出て来られたのを喜ぶかのように、コウモリのような膜状の翼をゆっくりと大きく広げて羽ばたきながら。

 さっきまで僕が『あいつ』だった……


「ミ=ゴだあああああ」妻が叫ぶ。


 『回廊』の、底が抜けた。


 逃げなきゃ。

 逃げたいのに。

 今度こそ、完全に、二人とも力が抜けた。

 月からの怪物と、星からきたミ=ゴ。

 じりじりと、そいつらが近づいてきて──

「いや……だ……あ……っ!」



 一番手前の灰色が、ぺしゃんこになった。



 ついさっきまで、のっそりとこちらへ這いずってこようとしていた灰色の月の化け物は、鋭い爪に切り裂かれ、出来の悪い紙人形のように厚みを失って、そいつの丸い足の下敷きになった。


「ギン!」


 小さな白い獣が、四つ足を踏ん張り、背中を丸めて毛を逆立て、牙をむき出しにして威嚇する。

 ギンだけではなかった。

 夜空の星のひとつひとつがすべて降ってきたかのように、白や、黒や、茶色に灰色、虎縞模様、斑(ぶち)に三毛猫、さまざまな毛並みの猫たちが、次々と地上に降り立った。

 その猫たちも、庭に降ってくるとすぐギンと同じように、月からの化け物たちに敵意を向け、その爪と牙とで容赦なく化け物たちを引き裂いていった。


──猫の流星雨。


 日本猫、ペルシャ、シャム、ロシアンブルーにマンチカン、アメリカンショートヘアに毛のないスフィンクスに、名前もわからないような種類のたくさんの猫たちが、五月雨のように、降ってきては化け物の前に立ちはだかり、ちりぢりに逃げてゆこうとするその前にもまた降ってきて、狩り立てる。

 あきらかに自分たちの方が図体も大きく力も強そうなのに、灰色の月の化け物たちは立ち向かうどころか我先にとその場から逃げ出そうとして、背を向けたところをあっさりと猫たちに切り裂かれ、食い殺されていく。

 それがまた、血を流すことも肉を裂かれることもなく、まるでふわふわのメレンゲか綿菓子のように、猫たちの爪と牙にかかった化け物たちの体はくしゃりと潰れ、さくさくと食われて猫たちの腹の中に収まってゆく。

 では、そいつらにはもともと実体などなかったのかというと、そうではなく、カエルのように跳ね回り、逃げ惑えば、その大きさに見合った足音をずしずしと立てているし、手入れの行き届いていた芝生は踏み荒らされ、黒っぽい土の色を見せている。

 天敵である猫たちだけが、そのふてぶてしく分厚い化け物どもの図体を、爪と牙とでいとも容易たやすく切り裂くことができるのだ。

 歯牙にもかけないとはこのことだ。


 最後の月の化け物が芝生の上に倒れ込んだとき、少し離れてじっと戦況を見ていたミ=ゴが翼を広げ、羽ばたいた。


「うわ……」


 膜状の翼が巻き起こす突風から反射的に顔をそらし、気がつくと、ミ=ゴは一体だけ悠々と夜空を飛行していき、すぐに僕たちの視界から見えなくなった。


 猫たちが残り少なくなった餌を腹に収めたり、満腹そうに伸びをしたりしている中で、芝生の上にへたり込んでいる僕たちの方へギンがやってきた。

「……ありがとう……。助かったよ、ギン。あんたの、あんたたちのお陰だよぅ……」

 すがりつくように抱きついてくる妻を、ギンはしばらくの間そのままにしていたが、やがてするりと妻の腕から抜け出して、池の方へと近づいていった。



 銀灰色をした円筒形の、ちょうどバケツぐらいの大きさの金属容器が、池のほとりにひとつだけ転がっていた。

 円筒の表面に、機械の突起がごてごてとくっついていたが、それさえなければ本当にバケツのように見えただろう。

 横倒しになったその容器からは、粘性の高い透き通った液体がこぼれて水たまりを作っている。

 一瞬だけ、その水たまりの中に、しわだらけで灰色のやわらかな塊が浮いているのが見えた気がした。



──もしかしたら、僕の脳髄は、さっきまで本当にそうなっていたのかも知れない。


 だが、すぐにギンがやってきて、金属容器を後ろ足で蹴り飛ばし、池の中に放り込んだ。

 ごぼごぼと音を立てて、バケツは池の底に沈んだ。



 うちに帰ろう、と、ギンが鳴いた。


(続く)

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