幻想の中(1)

 白い石の階段は、途中で曲がることもなく、ひたすら下へと伸びていた。

 階段に手すりはなく、不規則な形の白い石を、城の石垣のように積み上げて作られた通路の壁を手で探りながら、どこかおぼつかない足取りで僕たちは降りて行った。

「なんか……酔いそうなんだけど……」

「私も……」

 まだアルコールが残っているのかと思ったが、そうではなかった。

 一見、まっすぐのように見えていても、実は階段の一段一段が水平ではなく傾いていたり、通路自体が少しずつ左右にうねりながら伸びていっているのだ。

 いつ終わるとも、どこへ通じているとも知れない階段を、そうやってふらふらと降りて行く。

 不意に前方に、扉が見えた。

「出口だ……」

 ようやくこの不安な通路から解放されるという期待に、僕は残りの階段を一気に駆け下りた。

「待ってよ!」慌てて、妻も走り出す。

 相変わらず、ぐねぐねとうねる階段に足を取られそうになりながらも、僕らは扉の前にたどり着いた。

 白くてなめらかな手触りの扉が目の前にあった。

「開いてる……」

 ちょうど、まさに猫の子1匹ぐらいが通り抜けられそうなほどの隙間だった。

 そこから青白い、どこか人工的な、明るい光が漏れている。

 そっと扉を押し開けて、中に入る。

 扉の向こうは今までの狭い通路とはうって変わって、広々とした空間だった。

 明るくて広いエントランスホールの端に、何台かのパソコンをそなえたカウンター。

 その前の通路は少し進んだ所で左右に分かれており、右手の方にはぎっしりと本が詰め込まれた何十もの本棚と、閲覧用のテーブルと椅子が整然と等間隔に並べられている。

 反対側には、それよりも低めの本棚に、絵本や児童書を並べたコーナーがある。

 奥の方には新聞の閲覧用スペースもあるのが見える。


 そこは図書館だった。


 だが、誰もいない。

 閲覧コーナーに利用者の姿はなく、職員がいるはずの貸し出しカウンターも返却カウンターも、もぬけの殻だ。

 館内には、僕たち二人だけ。

 そして、大量の本。


 そうか。

 もしかして、ここなら。


「……ギン、そんなに本が好きなのか? さっきも本と一緒に行李に入ってたなあ? どこにいるんだぁ? おーい」

 静寂を破って、妻が呼びかけながら、カウンターの向こうや閲覧コーナーの方を探し始めた。


──そうだった。


 僕は我に帰る。

 僕たちは、いなくなった猫のギンを探しにきたんだ。

 でも。

 ここなら、見つけられるんじゃないだろうか。

 そんな僕の思いを、誰かが読み取ったとでも言うのだろうか。


 不意に、児童書コーナーへ向かう通路の手前に置かれた背の低い本棚に、目が止まった。

 いや。

 それは本当に、今までもそこにあっただろうか?



『今月のおすすめ 夢と幻想の世界への誘(いざな)い』



 淡いベージュの色画用紙に、手書きとは思えないほどきちんとした楷書体の毛筆で書かれたPOPが、本棚の上に置かれていた。

 歩み寄り、本棚を見る。

 表紙が見えるように置かれた何冊かの本と、背表紙だけを見せて棚差しされた何十冊もの本。

 棚の上から順に、タイトルと著者名を見て行く。

 読んだ覚えのある本、名前だけは聞き覚えのある本、著者名だけなら知っている本、聞いたことすらない本。

 妻が持っているのと同じ『ラヴクラフト全集』のすぐ隣りにフロイトの『夢判断』が並べられているというのは、いったいどういうつもりだろう? 

 それらの書籍に押しやられるかのように、本棚の一番はしっこに、彼の名前を著者名に記した6冊の本がひっそりと並んでいた。


『妖精奇譚』

『夜凪ノオト』

『銀と真珠の宴』

『名も無き聲』

『星の間』


 それから──


『青い回廊と西王子家断絶の次第』


「あった……」

 青い背表紙に銀の箔押しの表題の本を、本棚から抜き取る。

 瑠璃色の、薄い布張りのハードカバーの表紙にも、やはり銀箔押しでタイトルがつけられている。

 本を開こうとして、ページの小口も青色に染められているのに気づいた。

 青の水彩絵の具を、細い絵筆で小口の右はじに置いてゆき、その上から水だけを含ませた筆でそっと撫でたかのように、小口の狭いスペースに、繊細な青のグラデーションが描き出されている。

 本の下からは、うっすら青い、しおり紐が覗いている。 


ーー瓶覗(かめのぞ)き。


 きっと、そういう青だ。


「奇麗な本だね」いつの間にか妻がそばに来て、覗き込んでいる。

「うん……」

 そっとページを開く。



 途端に、膨大な水音が図書館じゅうに轟いた。



 僕が開いた青い本のページから、途轍もなく大量の水が、破壊的な水圧をもつ津波となって館内に一気になだれこんだ。

 僕も、妻も、声を出す間もなく真正面からの直撃を喰らってあっさり津波に飲まれ、押し流された。

 わずかな時間のうちに、莫大な量の水が怒濤となって流れ込み、広い館内はたちまち天井まで水面下に沈んだ。

 激しく逆巻く流れに、室内の何もかも、椅子もテーブルも返却カウンターも図書館の本棚までもが押し流され、収めていた蔵書を吐き出しながら水中を漂っている。

 妻の姿は既に見えない。

 たった1冊の本から、どうやってこれほど途方もない量の水があふれ出てきたのか。

 水中に沈んで、息苦しさはあったが、なぜか命の危機は感じなかった。

 アクアマリンの洪水に包まれて、図書館の本や棚と一緒になって流されながら、あの原稿の一節が脳裏に浮かぶ。



──あるいは空洞の中で、さざなみのように揺れる波に全身をゆだねて、漂っていた。

──波は時に怒濤となって、僕を飲み込み、溺れさせた。



 目を閉じて、思いを馳せる。

 こんなふうに、彼も溺れたのだろうか。

 自分の幻想に。



     *     *     *



 水槽の底が抜けたかのように、ざあっと音を立てながら一瞬にして水面が下がり、部屋の様子があらわになった。

「……え……えっ……?」

 だがその部屋の中は、まるで濡れてはいなかった。

 さっきまで水の中で溺れていたはずの、僕たちの体も、髪も、服も、全く濡れてなどいない。

 そして、逆巻く流れに引き離されたはずの僕と妻は、二人で、そこに立っていた。

 そこはもう、図書館ではなかった。

 窓から黄昏色の夕陽が差し込む小さな部屋。

 壁際に本棚を置いて、すぐ側(そば)に書き物机と椅子。

 反対側の壁際には、簡素だが清潔そうな寝具を整えられたベッドと、小さな洋ダンスが置かれている。

 他には、なにもない。

 書き物机の上には分厚い、辞書のような本が1冊だけ置き去りにされている。

 室内に敷かれた絨毯やカーテンは、古びてもいないのに、妙に時代がかったものに見えて──


 いや。

 この部屋を、僕は知っている。


 ドアが開いて、誰かが入ってきた。

 妻が、はっと息を呑む。

 僕も身をこわばらせる。

 まだ若い男だった。

 だがその男は、自室に見知らぬ男女が入り込んでいるのに目もくれず、重く疲れ切った足取りで部屋に歩み入り、書き物机の前の椅子に座ると両手で顔を覆って絞り出すような深いため息をついた。



     *     *     *



 梶尾と別れて、僕は西王子家屋敷に帰った。

 邦充(くにみつ)氏に与えられた自室に戻ると、僕は重く疲れ切った足を引きずって、机の前の椅子に座り込むと両手で顔を覆って絞り出すような深いため息をついた。

 いつもなら、僕が戻るとすぐに屋敷の誰かが、光彦の部屋へ行くようにと僕を呼びに来るのに──必ずそうするようにと、光彦は全ての使用人に言い聞かせているのだ──何故かその日は、誰も来なかった。

 だけど、それが、有り難かった。

 梶尾の「依頼」は、あまりにも重かった。


──新興宗教団体『光輝水星教』に関する報告書。

──それを、西王子氏の手元から盗み出してもらいたい。


 その内容はおろか、存在自体、西王子家当主以外の誰も知らないという、当主自身が密かに隠し持ち、誰の目にも触れさせることすらあり得ないと言う、報告書。

 そんなものを、盗み出せと?

 この僕に?


──現当主たる西王子氏の信頼も厚いと言われている。

──その君に、頼みたい。


 信頼だって?

 確かに、邦充氏は何かというと僕にこまごまとした用事を押し付けてくる。

 でもそれは、今となってはたった一人の息子であり西王子家の後継者でもある光彦が、僕を気に入って手放そうとしないから、一緒になって同じことをしてみせているだけなのではないか。

 子供が親の真似をして、褒めてもらいたがるように。

 まさか。

 それではまるで逆じゃないか。

 そうか。

 あの親子は、逆なのだ。

 鷹揚、と言えば聞こえはいいが、邦充氏は帝都に名だたる名家を率いる当主としてはおっとりとしていて、ことに光彦の言うことに対してはあまりに簡単に押し切られてしまうところがあった。

 そのくせ、外部にはそんな弱さを見せまいと、おおらかで懐の深い紳士として自分を見せようと振る舞うきらいがあった。

 光彦も、家の外では邦充氏の後ろに控えて、父の体面を損なう素振りは決して見せなかった。

 そんなふうに、邦充氏のことを捉えて見直すのは初めてだった。

 もともと、他人のことを眺め回すような視点も、値踏みするような自信も、薬にしたくても持ち合わせてなどいない。


──いつだって、自分の中のぐちゃぐちゃしたものを抱えて、それだけで精一杯だった僕なのだから……


 胸に溜まった息をまた、吐き出した。

 顔を覆っていた手を下ろして、少しずつ目を開く。

 梶尾の言うような、あるいは世間で噂されているような西王子家当主にまつわる噂と、邦充氏の、ただ名家に生まれてきたという以外なんの取り柄もないと自覚している男の等身大の姿とが、僕の中ではどうしても重ならなかった。

 それとも、それこそが、西王子家当主の隠された真実の貌(かお)の恐ろしさなのだ、とでも言うのだろうか?


……そんなはずはない。


 ぎくりとして何かを振り払おうとした手が、書き物机の上に置きっぱなしだった辞書に当たった。

 片付けようと手を伸ばして──


──違う。


 その手が止まる。

 僕は出かける時は、必ず、机の上は全て片付けてから部屋を出ることにしている。

 この辞書も、本棚のいつもの場所にしまっておいたはずだ。

 どうして、それがここにある?

 もう一度、手を伸ばし、辞書を手に取る。

 僕がいつも使っているフランス語の辞書だ。

 何気なく開き、そこでページが止まる。


 紙切れが1枚、挟み込まれていた。


『以後、この方法で連絡を取る。

 だが机に置くのは今回だけ。

 次回からは君が本棚からこの本を取り出せ。

 この部屋も監視されている可能性を念頭に行動せよ。

 承知であればこの紙を挟んだまま、

 本を上下逆にして本棚に戻せ』


 青いインクのラテン語で、そう書かれていた。

 梶尾の筆跡のような気もするが、よくわからない。

 動悸と、手の震えを、必死で抑える。

 辞書をそっと閉じて、いつも置いてある場所、本棚の一ヶ所だけ開いている隙間に上下を逆にして収めた。


 わずかな静止のあと。

 そのまま辞書が、するすると奥に引き込まれて行った。

 僕の目の前で。

 声を上げそうになるのを、辛うじてこらえる。

 よく見ると、奥にあるはずの本棚の背板がなくなっている。

 その更に奥は、暗くて見えない。

 だが、またすぐに、今度は奥から手前に向けて辞書が押し戻されてきた。

 上下逆だったのは、本来の向きに直っている。

 元通りあった位置に辞書は戻ってきた。

 何事もなかったかのように。

 もう一度その辞書を手に取ろうとして、僕は思い直した。


──この部屋も監視されている可能性を念頭に……


 辞書をそのままにして、僕は机の引き出しを開けた。

 中からノートと鉛筆を取り出す。

 さっきの辞書には目もくれず、本棚の別の場所から適当に本を取り出してページを開き、ノートに内容を書き写し始めた。

 3ページほど書き写してから、また、辞書を取り出す。

 ぱらぱらと中をあらためる。

 できるだけ、何気なく。

 さっきの紙はどこにも入っていなかった。

 新しいメッセージも、なかった。

 鉛筆を走らせながら、ちらりと本棚に目をやる。 

 辞書のあった空間の奥に、本棚の背板はちゃんとあった。

 誰かに聞き取られることのないようにそっとため息を吐き出しながら、しばらく僕は意味の無い筆記を続けていた。



     *     *     *



 気がつくと、僕と妻はさっきと同じように部屋の壁際に立っていた。

 神原泰明の姿は消えていた。

 書き物机の上には本とノートと鉛筆と、辞書だけが残っている。

 僕は机の前に歩み寄り、椅子を脇へどかして本棚を覗き込んだ。

 辞書があった空間の奥に、本棚の背板がある。

 手を伸ばして、押してみる。

 固くて、しっかりとした、厚板の手応えがあった。

 まわりの本も棚から抜き出す。

「なにやってるの?」妻が、側にやってきて聞いた。

「さっき見ただろ? この本棚の仕掛け」

「仕掛け?」

「後ろの板が、たぶん外れるんだよ。それで、部屋の外から辞書を出し入れできるようにして、メッセージのやり取りに使うんだ」

 抜いた本を机に積み上げ、背板を確かめる。

「……板に継ぎ目はないから、部分的に開くところがあるんじゃないな。この背板全体が外れるのかな」

「そんなの、見てないよ?」

「え?」

「だって真横でしょうが。あの位置からじゃあ、本棚の奥なんて見えないって」

 妻が、さっきまで僕たちがいた場所を指差している。

 書き物机がある壁際と反対側の、ほぼ真横。

 確かに、あそこからでは本棚の真横になってしまって、背板がなくなっているのも辞書が奥へ引き込まれていく様子も見えるはずがない。


──だけど、僕は……。


「……どうしたの?」

 僕の顔をのぞきこんでたずねてくる妻に、僕はさっき見た通りのことをかいつまんで話した。

「……そうか、そんな仕掛けが……。私は、さっきの場所から、泰明さんがため息ついたり何か読んだり書いたりしてるのを見てただけでさ」

「……あれが神原泰明さんだっていうのは、わかったんだ」

「え? ああ、うん。そういえば、何の疑問もなく泰明さんだと思い込んで見てたね。なんでわかったのかな? ……うーん、じゃあ、君は主人公の視点で見てたのかぁ。やっぱり血がつながってるからなのかなあ?」


 主人公の、視点?


 自分の手に、目を落とす。

 感触が、なぜか、残っていた。

 椅子に座り込んで深いため息とともに顔を覆った手。

 机の上に置き去りの辞書に触れて、ぎくりとして。

 その時の、動揺。

 辞書に挟み込まれた秘密のメッセージを見て、ふるえを抑えようとした手と、抑えようにも抑えきれなかった胸の鼓動までもが、僕の胸に残っている。

 鉛筆を握りしめ、無意味な筆記を続けた、手。


 「視点」と言うには、あまりに生々しかった。


 あの手は、誰の手だった?

 不安と恐怖に潰れそうな胸をかかえていたのは、誰?



──僕はいったい、誰?


(続く)

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