行李の中

     *     *     *



「……梶尾さんは言うてました。あいつは、生きづらいんやって。普通の人やったら、『なんや、そんなことぐらい』って、跳ね返してしまえるようなことでも、全部、胸に響いてしまうから、それが痛くて痛くて、動けんようになって、動けんせいで余計にしんどくなってしもて。そのくせ、あんまりにも怖がりすぎるもんやから、そこから逃げることすらできんで、その場で固まって、立ち尽くしてしまうだけになってしまってるから、それでまた、余計つらいんやって……だからそこを、自分としては何かしてやれんのかって……」

「梶尾は、そんなこと言わない」言いつのるおりんさんに、万年床の布団をかぶったまま僕は言った。

「そんなことないですって! 梶尾さんはほんまに神原さんのこと心配して」

「あいつは京都弁じゃない」

「ぶはっ」



     *     *     *



「そんなシーンはなかったよ」

 小説で読んだ情景をそのまま夢に見たと話した僕に、妻の反応はそっけなかった。

「……なかったっけ?」

「ないない」

 かぶっていたブルーインパルスのマーク入り帽子を脱いで、妻は車のウインドウを開けた。

 青々とした初夏の風が車内を通り抜け、僕らの髪を撫でてゆく。

「ありもしないシーンを夢に見るなんて、ずいぶん影響を受けたもんだねえ。……あっ、言っときますけど私、君の蔵書の整理は手伝いませんから。泰明さんの荷物を調べに行くだけですから」

 後部座席では、行きがけにホームセンターでたくさん買っておいた本の収納ケースが揺れてがたがた言っている。

 僕らの住む家から車で30分ほど、横溝正史が疎開していたのと同じ町内に、僕の実家はある。

 初めて実家を訪れて、僕の部屋を見た妻は、話だけは聞かされていた僕の蔵書を目にして一層危機感をつのらせたらしい。

 結婚が決まり、嫁入り道具として妻が新居に運び込ませた家具の中に、全く同じ本棚が二つあった。

 注文の手違いかと思ったが、そうではなかった。

 同じ大きさの本棚をふたつリビングに並べさせて、妻は宣言した。

「君はそっち、私はこっち。自分の本は、自分の本棚にしまいましょう。本棚がいっぱいになったら、新しい本棚は自分のこづかいで買いましょう。床に直(じか)置きは、絶対に駄目です。直置きした本は捨てます」

 実家の本が一部しか持ち込めないでいるうちにも、新しく買った本と合わさって、あっという間に本棚はあふれたので、僕はホームセンターで見つけた半透明の文庫本ケースと新書ケースとコミック本ケースをいくつも買ってきて、本と漫画を収納して壁際に積み上げ、ハードカバーはその上に積んだ。

 ところが、妻がいい顔をしない。

「こんなのは本棚じゃない」

「でも直置きじゃないよ」

 かまわず、僕は文庫本ケースとコミック本ケースで部屋の壁の前に壁を築き上げていった。

 本棚を自腹で買わなければならないというプレッシャーを僕に与えることで、少しでも本の増殖を食い止めようとしていた妻の作戦は完全に外れた。

「それだけじゃない! せっかく作り付けの収納スペースがこんなにあるのに、半分は私のスペースだって言ったのに、全部君の本が入ってるじゃないか!」

「だってあなたはいま使ってないんだからいいでしょう? 使いたくなったら言ってよ。本はよそへ運ぶから」

「よそってどこ!?」

 僕の母が、これ以上僕の本を実家に置くことを拒否している話は、既に妻には知れていた。

 そうこうするうち、弟も結婚することとなり、母が最後通牒を突きつけてきた。

「お正月にはあの子もお嫁さん連れて泊まりがけで帰ってくるんだから、そしたら部屋が足りないでしょう? それまでに、あんたの部屋の本は全部引き取ってちょうだい。残った本はこっちで処分しますから」

 見かねた父が助け舟を出してくれた。

 うちの蔵の中を僕が整理して、空いたスペースに本を置いてもいい、と言うのだ。

 もう何十年放置されているかもわからない、ほこりだらけの蔵を、大事な本の保管場所にするのは気が進まなかったが、背に腹はかえられない。

 こうして、僕は暇を見つけては実家へ戻って蔵を整理し、自室から大量の本を運び込むのが週末の恒例になっていた。



「ねえ、晩ご飯はどうする?」

 二階の自室でライトノベルを片っ端から収納ケースに詰め込んでいる僕のところへ妻がやってきて、尋ねた。

「どうするって? ……お昼はコンビニのサンドイッチ買って食べたよね」

「うん。また何か買ってきて食べるか、それとも、どこかへ食べに行くか」

「うちで何か作るのは?」

「さすがに、人んちの台所で料理するのはちょっとね……」

「そうか……」手を止めて、壁の方を見る。

 毎週買い続けていた漫画雑誌の背表紙が、壁紙の模様みたいに規則的な柄を描いている。

「じゃあ、高田屋で焼き鳥でも食べようか」

「おっ、いいねえ」

「明日の朝はどうするの」

「それはね、朝一番でフロイン堂の焼きたてパンでも買ってこようかなって」

「ああ、それはいいねえ。……ところで、何か見つかった?」

 妻が1冊のノートを開いて、差し出した。

「たぶんこれ、創作ノートなんじゃないかな。例の小説を書くのに調べたんだろうけど、青い花や石や鉱物の名前とか、もうとにかく、いっぱい書いてある。藍染めがどうとか、青い色の名前とか、それがどういう色合いの青なのか、とか」

 受け取って、中を見る。

 群青(ぐんじょう)色。白群(びゃくぐん)色。新橋色。

 シアン、インディゴ、セルリアンブルー。

 露草、竜胆(りんどう)、菖蒲(あやめ)、勿忘草(わすれなぐさ)。

 黒い鉛筆の、こまかな字で、びっしりと書き込まれている。

「今ならネットで検索すればすぐだろうけど、昔のことだから、図書館でいろいろ本を借りて調べて、片っ端から書きとめていったんだろうかね」

「『ウィアード・テイルズ』は?」

「今のところ、それらしいのは見つからないねえ。こういうノート類とか、辞書とか。本もいろいろ、英語の本とかもたくさんあったけど、そういうパルプフィクションみたいなのじゃなくて、真面目な普通の本みたい、ハードカバーの」

「日記とかはないの?」

「ない。ノートが日記がわりになってないかと思って、読んでるんだけど、こういう創作ノートばっかり。日付けもないから、やっぱりあれを書いたのがいつかはわからなくって。ああ、でも代わりにこれが」

 妻が紙切れを寄越すのを受け取る。

 手帳の1ページを無造作に切り取った紙切れには、万年筆らしき青いインクでこう書かれていた。



『神原泰明 全著作


 妖精奇譚

 夜凪ノオト

 銀と真珠の宴

 名も無き聲(こえ)

 星の間(あわい)』



「青い回廊の話はないのか……」

「うん。ただ、刊行年月日も書いてないし、これが本のタイトルなのか小説のタイトルなのかもわからないから、これらの本の中に収録されてる可能性はあるかも。でもこれ、たぶん泰明さんが書いたんじゃないよ。筆跡が違う感じ」

 ノートの文字と見比べると、確かに字の癖がだいぶ違っているようだ。

「銀の鍵は見つかった?」ノートとメモを返しながら聞く。

「……ちょ、あるわけないだろうがそんなもん!」

「じゃあバケツ」

「は?」

「円筒形で、金属製の」

「やめろ! そういうのマジでやめろ!」妻の口元がひきつっている。

「えっ? そういうのを見つけたいんじゃなかったの?」

「……君は知らないから……ラヴクラフト読んでないからそういうことが言えるんだぁっ!」

 不意に階下から、どさどさっ、と物音がした。

「いっ?!」妻がノートを持ったまま硬直する。

「……誰か来たのかな」文庫本ケースの蓋を閉めて、立ち上がる。

「誰かって……誰か来たならチャイム鳴らすでしょ……?」

 まだまだ整理し切れない蔵書を残し、部屋を出た。

 妻もノートを片手についてくる。

 階段を下りて、一階へ。

 ばさばさと何かが崩れる音がする。

 座敷の方だ。

 廊下を通り、二人でそちらへ向かう。

 座敷の障子は閉まっていた。

 ごそごそと、障子の向こうから物音がしている。

 座敷には、例の泰明さんの遺した荷物が広げられているはずだ。

 ほこりっぽい蔵で探し物をするのは嫌だと妻が言うので、とりあえず、書籍類の入った行李らしき箱をいくつか座敷に運び込んだのだ。

 障子の前で、二人で立ち止まる。

 妻は僕を前に立たせたまま動こうとしない。

 障子に手をかけて、すっと開けた。

 座敷の端に置かれた、大きな座卓の上に積み上げられていた本の山が、崩れている。

 ハードカバーの古い本が、畳の上に何冊も裏返しになって落ちている。

「ああー、ページが折れる……」

 慌てて座敷に入り、ひっくり返った本を拾い上げて折れ曲がったページを丁寧に伸ばしてやった。

「なんだぁ、そんなことかぁ」

 拍子抜けしている妻に、僕は文句を言ってやった。

「何が『そんなこと』だよ。昔の本は紙が劣化してるのもあるだろうし、大事にあつかわないと駄目じゃないか」

「わかったよ、もう。見た本はちゃんとしまっとくから」ぶつぶつ言いながら、妻も落ちた本を拾って行李に入れようとして──



「にゃあ」

「うわあっ!」



 行李に入れようと両手に抱えていた本を、妻がまた畳の上に落とした。


「ちょっと! なにやって……え……?」


 行李の中にいたのは、白い猫だった。


 うす青い、淡い色の瞳が、僕たちを見上げている。

「なんだあ。お前か、猫ちゃんよぅ。お前が散らかしたのかあ。しょうがない奴だなあ」文字通りの猫なで声で、妻が猫に話しかける。

「……どこから……?」

「あっ……ごめん……、外の空気いれたかったから、そこ開けてた……」

 座敷と縁側を隔てる障子ががら開きになっている。

「うわあ……これはまずいよ……」

 行李の中から猫を抱き上げる。

「あっ、ちょっと……」

「まさか、そこらに粗相とかしてないよね?」

「うっ!」

 慌てて、妻が辺りを見回す。

「……そういう形跡はなさそうだけど」

「行李の中も、ちゃんと見て」

「うん、……大丈夫」

 猫の両脇の下に手を入れて、立ち上がる。

 白い長い胴体が、だらん、と垂れる。

 そのまま縁側から、サンダルをはいて庭へ出る。

「ああっ、どこ連れてくの?」妻も足でサンダルをひっかけながら出てくる。

「うちの外だよ。外に逃がすの」

「ええー! やだー! 遊ぶー! 猫と遊ぶー!」

「駄目だよ。うちの母親、動物嫌いなんだから」

「やだー! 逃がすのやだー!」

 庭を横切って、門から敷地の外へ出ようとする僕から、妻が猫を奪おうとする。

「かして! かしてよぅ~!」

「ええい、子供か!」

「だってえ~。……ここじゃ駄目なら、隣りの公園で一緒に遊んでくるから~」

「わかったよ、もう」

「わーい」

 両手で猫を垂らしたまま、門を出た。

 古い住宅地の中、実家のすぐ隣りに、滑り台とブランコと鉄棒だけの小さな公園があった。

「あっ」

 妻に猫を手渡そうとした隙に、そいつがするりと僕の手を抜け出した。

 公園のまえ、一目散に猫が駆けてゆくその先に、若い男の姿があった。

 身をかがめて、両手で、白い猫を迎える。

 何のためらいもなく猫は男の腕に抱かれた。

「ああ……」

 ため息のような妻の声に、男がこちらを向いた。

 僕らを見る切れ長の目に、妻が立ちすくむ。

「飼い主の方ですか?」

 問いかけた僕に、男がうなずいた。

「はい。……佐久間と言います。これが、そちらのお宅に入り込んで、ご迷惑をおかけしたようで。申し訳ありません」

 佐久間が頭を下げた。

「ああ、いえ……」

 うつむいてサンダルのつま先をじっと見ていた妻が顔を上げた。

「だ、大丈夫です! 迷惑どころか! あの……」

 小走りに近づき、佐久間から2、3歩離れた所から猫をのぞき込む。

「あの、かわいいですね。……この子のお名前は?」

「……ああ、こいつは、ギンです」

「ギン! そうか、シロじゃなくて、ギンですか。……あの、お近くの方ですか?」

「……ええ、まあ。……急にいなくなったので、探しておりました。では、失礼します」

 ギンを抱えたまま、一礼する。

 僕にも頭を下げて、去って行く。

 妻と二人、会釈を返して見送った。

 胸を押さえ、サンダルを引きずりながら妻が戻ってくる。

「……はあ、緊張したあ……」

「いや、普通にしゃべってたよ。通りすがりの知らない人にあれだけ話せるんだし、人見知りって言ってももう……」

「……普通にしゃべってるように見えても、内心が平気ってわけじゃないんだってば……。あの人、どこか話しかけやすそうな気がしただけで……。はあ」

 話しかけやすいどころか、僕には向こうから早々に話を打ち切ったように見えたのだが。

「……で、佐久間さんちって、近いの?」

「さあ、知らない」

「えっ? だって、近所って言ってたじゃん」

「佐久間さん、なあ……」

 覚えがなかった。

「最近引っ越してきたのかも知れないし、だったら僕にはわからないなあ。うちの両親が帰ってきたら聞いてみるけど」

「近くなら、またギンと遊べるなあ。遊べるといいなあ」

「だからうちは駄目だって」

「え~?」恨めしげな声と顔で見上げてくる。

「ところで、まだ調べる? あの荷物」

「……ああ、うん。……だって、さっきの著作リストの本も探したいし」

「僕も、まだ本の片付けしてるから。出かける時間になったら、……いや、早めに呼んで。座敷の片付けしてから行かないと」

「うん」

 妻が立ち止まり、振り返る。

 ギンと佐久間の姿は、もうなかった。



     *     *     *



 焼き鳥とビールで腹を満たして、二人でふらふら夜道を歩いて帰った。

「あ、月だ」妻が夜空を見上げる。

「本当だ。……今日、満月だったんだ」

「そうだね……。あ」

 長身の人影が、公園の方からこちらへ歩いてくる。

 何かを探すように、辺りを見回しながら。 

「……佐久間さん?」

 妻が呼びかけ、近づいた。

「どうしたんですか?」

「……ああ、先ほどは」

「あの、……もしかして」

「ギンがまた、いなくなりました」

「え?」

「そちらのお宅には、来ておりませんか」

「さあ……」

「僕たち、夕方からずっと出かけていたので」追いついて、僕が答えた。

「探してみます!」足早に妻が家の敷地に入る。

 スマホの懐中電灯アプリで庭を照らしながら見回す。

「やっぱちょっと暗いな……。懐中電灯ない?」

 指図されて、僕は玄関の鍵を開けて下駄箱の中にしまってあった懐中電灯を手渡した。

 植え込みの奥や縁側の下など、庭のあちこちを照らしながら、しばらく三人で探した。

「ギンって、名前を呼べば来ますか?」

 妻が尋ねた。

「……いえ、どうでしょう。あまり呼ぶことがないので。名前だという認識はないと思います」

「もう遅いから、あまり声を出すのは、さすがにどうかな。ええと、僕は猫のことはよく知らないんですが、まだあれから半日も経ってないですし、そんなに慌てて探さなくても、ご自宅で待っていれば……」

「あの猫は本来、私から離れることはありません」

 佐久間は僕から目をそらした。

「……本来?」

「詳しいことはお話ししかねるのですが、ずっと、そうでした。……ありがとうございました、ここはもう結構です。もう少し、ほかを探してみます。夜分に失礼しました」

「あっ、あのっ、ギンがここへ来たら、私、連絡します! 携帯へ……番号を教えていただければ」

「携帯は、ありません」

「じゃあ、ご自宅へ電話か、近くなら直接連れて……」

 妻の申し出を佐久間はさえぎった。

「いえ、それも。……明日の朝、もう一度こちらへお伺いしますので、もし見つけたら、それまでの間だけでいいので保護してやって頂けないでしょうか」

「……ええと……」

「わかりました」答えに詰まる僕を差し置いて、妻が即答した。

「勝手なお願いばかりで、申し訳ないのですが……」長身の頭を、下げる。

「いえ……」

「では、失礼します」

 あらためて僕ら二人に頭を下げて、佐久間は門を出て、再び公園の方へと歩き去った。

「ギン、見つかるといいけど」

 生け垣越しに妻が佐久間を見送っている。

「……あの人、公園に住んでるんじゃないか?」

「ちょっ……! 失礼だな君は!」

「だってまた公園の方へ行ったじゃないか。さっきもあっちから来たのに」

「家があっちの方にあるんでしょうが!」

「携帯もないし、家電(いえでん)もないって言うしなあ」首をかしげながら僕は家の中へ入った。

「家電(いえでん)がないとは言ってなかったじゃん。……言ってなかったよね?」

 妻も家に入り、玄関の鍵をかけた。

「どうだったっけ……? ああ……」

 大あくびが出た。

「……今日は風呂はいいや……もう寝る」廊下から座敷に入り、既に敷いてあった布団に倒れ込んだ。

「ええ?! 風呂は入りなよ! 片付けでほこりかぶったでしょ!」

「明日の朝、シャワー浴びる。おやすみ」

「ああもう! ……ちょっと、ど真ん中に寝るな! 私の寝る場所がない!」



     *     *     *



 夢の中に、猫がいた。


 天井にひとつだけある明かり取りの窓から、白い光が差している。

 そのスポットの中心に、白い猫の尾だけが見えた。

 長持が一つ開いていて、ふたは斜めになって長持にもたせかけられている。

 長持の中からは、ぼうっと輝く猫の尾が、しなやかな曲線を描いて上に伸びていた。

 猫の尾が、ゆれている。

 ゆらり、ゆらりと。

 手招きしているかのように。

 僕はその白い尾の方へと歩み寄り、長持の中を覗き込んで──



「あっ」

 自分の上げた声で目が覚めた。

 がばりと布団をはね除けて、上体を起こした。

「うう……なにぃ……?」

 掛け布団と安眠を奪われた妻が抗議の声を上げた。

 真夜中の座敷を照らすのはグロー球の明かりだけだった。

「そうか、蔵だ」

「うーん……」妻は目を閉じたまま掛け布団を取り返そうと引っ張っている。

「ギンのやつ、蔵の中かも知れない」

「……え?」

「僕たち、蔵の中にギンが入り込んだのに気づかずに鍵をかけたんだ」

「そんな……鍵は……高田屋に行く前にかけたんだから……」

「その前だよ。ここに置いてあった荷物を片付けて、二人で全部の行李を蔵へ運び込む間、蔵の戸はずっと開けっ放しだったじゃないか」

「ああっ……!」

 ようやっと妻も、事態を把握して布団から這い出した。

「あの時に入り込んだってこと……?!」

「中を見てくる」

 障子を開けて座敷を出て、廊下へ2、3歩踏み出した所できびすを返した。

「蔵の鍵」

「えっ?」

「どこに置いた?」

「ああ……」

 枕元の目覚まし時計の隣りに置いてあった鍵を、妻が僕の方へと放(ほう)った。

 だが、取り損ねて、下に落とした。

 鍵は硬い音を立てて廊下に落ちた。

「あっ! ごめん……」

 重たげな鍵が板張りの床に落ちている。

 その光景が、瞬間、なにかにひっかかった。

「……いや……」拾い上げ、玄関に向かった。

 下駄箱の上に出しっぱなしになっていた懐中電灯も持って行く。

 妻もパジャマのままついてきた。

 月明かりの下、懐中電灯の明かりを頼りに蔵へ向かう。

 県庁所在地に隣接する県下第二の街であり、工業地帯や港もあったにも関わらず、奇跡的に空襲を受けることなくこの町は残った。

 中心街にある美術館の収蔵品が焼失するのを惜しんだ米軍将校が、空襲の目標から除外するよう働きかけたと伝えられる話を母は得意げに語るが、真相は明らかでない。

 そうして、この町には白壁の古い町並みとたくさんの蔵が残った。

 僕にとって、実家の蔵はそのうちの一つにすぎなかった。

 つい、この間までは。

 薄汚れた白壁の蔵が僕たちの前に浮かび上がる。

 いつから使われているかもわからない古い錠前を鍵で開けた。

 力を込めて、重い扉を開ける。

 蔵の中はしんと静まり返っていた。

 懐中電灯で中を照らす。

 手前の方には、昼間に調べた荷物。

 奥の方には、まだ調べていないたくさんの荷物と、ケースに収めて積み上げた僕の本。

 その、もっと奧。

「あ……」

 白木の長持が一つ、ふたが開いている。

 ふたは斜めに、長持にもたせかけられている。

 思わず顔を見合わせる。

「……私は、開けてないよ……?」

「いや、それより……あんなのなかったような……」

「ええっ……」妻の顔が、こわばる。



 そうして、ふたたび静まり返った蔵の中で。


──にゃあおう。


 僕たちの耳に、猫の声が届いた。



「ギン……!」

 どちらからともなく、長持に駆け寄る。

 二人で中を覗き込んで、息を呑んだ。

「なんだ……これ……?」



 何もかもが薄汚れて、ほこりをかぶった蔵の中、白木の造りが妙に真新しく見える長持の中に、白い石づくりの階段が下へ下へとどこまでも続いていた。

 そこだけが、懐中電灯の明かりも必要とせず、かすかに、白くぼうっと光を放って見える。

 だが、階段の行き着く先だけは、はるかに遠く、見えない。



「どうして、こんなものが……」

 呆然と、つぶやく。

「いったい、どこへ……?」

 妻の疑問に、答えられるはずもなく。



──にゃあおう。



 再び階段の奥から、かすかな声が響いた。


「ギンが呼んでる」

「うん……行こう」

「うん」



 どこへ通じているかもわからない、長持の中の階段を下りて行こうなどと──

 それも、他人の飼っている猫を探しに行くために。

 どう考えても、その時の僕たちの精神は通常の判断力を失っていたとしか思えない。

 いや。

 それはきっと、泰明さんの書いたあの小説を読んでから、ずっとだったのだ。

 二人とも。

 僕が先に入り、妻が後に続いた。

 僕たちは長持の中に開いた『夢の回廊』の階段を二人で降りて行った。


(続く)

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