蔵の中(2)

蔵の中(2)

「仕事やめてもいいですか。本を読む時間がぜんぜん足りないんだよ」

 妻が、またその話か、と言いたげな表情になる。

「……相変わらず『本だけ読んで生きていたい』症候群だなあ、君は」

「世の中って、ままならないものだよね。僕が仕事をしているなんて間違ってるよね」

「あのなあ、世の中っていうのはね、そもそも間違ってて、ままならないって言うのが前提なんだよ」

 ほおばった焼きそばを飲み込んで、妻が反論する。

「まだ君は、活字中毒なだけで、人並みに社交性があるからいいじゃないか。私なんか子供の頃から重度の人見知りで、本しか友達がいなくって、小学5年で教室に入れなくなってからはずっと図書室に登校してたっていうのにさ。それが今では毎日、患者さんやお医者さんや看護師さんと話をしながら仕事してるんだからさあ。もう本当に、おかしいって、こんなの。間違ってるにも程がある」

 言い捨てて、グラスの中身を干す。

「まあねえ、働き方次第では、私が頑張って稼いで君ひとり養ってあげるぐらいは不可能じゃないんだろうけど、さすがにちょっと、私には、しんどいなあ」

 傾けた妻のグラスに、ビールをつぎ足してやる。

「だからまあ、そこんところは、『お互い様』ってことにしといてもらいたいなあ」

 僕の空いたグラスにも、琥珀の酒がそそがれる。


 お互い、そんなに強くはないのだ──酒だけではなく。


「けど、ああいう生活がうらやましいって気持ちはわかるよ、うん。すっごくよくわかる」3本目の缶ビールと一緒に冷蔵庫から出してきたつまみ類をつつきながら、妻が言う。

「だよね。あれって、いわゆる高等遊民だよね。西王子家がパトロンみたいなもので」

「そうそう。そんでもって、海軍士官がお友達でさ、桜の木の下で軍服で待っててくれたりしたら、そりゃ私だったら尻尾ふってホイホイついていくね!」

 妻の眼が輝いてるのはアルコールのせいだけではないようだ。

「……あなたって、本当にそういうのが好きだよね」

「ああ、好きだね! だって青年士官だなんて、かっこいいじゃないか! うーん、しかし、大正時代の帝国海軍士官の制服って、どんなのかなあ?」

 好きだと言うわりには、具体的な知識は乏しい。

 軍事ロマンチシズムの上に、女性だけが持っている砂糖菓子かアロマのような何かをいろいろ足し合わせて混ぜ合わせた結果、漠とした憧れだけがどっさりと沈殿した、というところだろうか。

「あとで画像検索でもしてみるかなあ? 大正時代か……。ん? ……ちょっと待て……」

 あと一口、二口だけの焼きそばの皿を食卓に残したまま妻は本棚に向かい、1冊の文庫本を手に取った。


『ラヴクラフト全集 1 H.P.ラヴクラフト 創元推理文庫』


「ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。1890年生まれ、1937年没……大正時代って、何年から何年?」巻末の訳者あとがきを見ているらしい。

「知らない」

「ああもう」スマホの年号換算アプリを、妻は立ち上げる。

「……明治23年生まれで、没年が昭和12年か。てことは……うーん……」

「なに?」

「……いや、ちょっと今、すごくこわい想像をしてしまって」

「どんな」

「君の大叔父さんの方が先に書いてた、とか」

「……ええと」さすがの僕も、箸が止まった。

「でも、1890生まれってことは……?」

 妻がアプリで換算を続けている。

「大正元年=1912年の時点でラヴクラフト22歳。で、1922年にラヴクラフト自身の作品が売れ始め、翌年『ウィアード・テイルズ』創刊って書いてあるから、これが大正11年……」

「シュブ=ニグラスが最初に出てきたのはいつの作品?」

「さすがにそこまでは知らないよ!」

「それじゃあ何とも言えないな。大叔父さんは戦後しばらく生きてたらしいし。まあ、あの原稿自体がいつ書かれたものなのかが、そもそもわからないんだけど」

「でも、この『ラヴクラフト全集1』自体は、初版が1974年ってなってるんだよ? それ以前にどうやって日本にラヴクラフト作品が入ってるのかって……」

「名家の跡取り息子相手に英語やラテン語まで教えるぐらいだから、原著があれば読めるんじゃないかな。東京で、お坊ちゃんと日がな一日、本屋めぐりしてたらどこかで手に入ったとか」

「それって小説に書いてあったことだよね? あの小説の内容は本当だって仮定の上に成り立つ話だよね?!」

「……あれえ?」

「ええ!? ちょっとやめてくれる?! ほんとうに!」

 やめてくれもなにも、いろいろ混ぜ合わせて勝手に怖がっているのは妻だ。

「冗談だって。あのさ、あなた酔ってるでしょ。大叔父さんがどこかでラヴクラフト作品を入手できたのだとしたら、それに触発されてあの小説を書いたってだけで、小説の内容が全部実体験だってことにはならないからね。書生時代の経験を生かして書いた部分も含んでるだろうけど。……そうか、だとすると……出てくるかも知れないなあ」

「出てくるかもって、何が……?」

 自力で混ぜ合わせたものにまだ怯えている妻に、僕は言ってやった。

「いや、蔵には泰明さんの遺した荷物がまだたくさんあるんだよ。こっちに疎開してきた時に持って来たらしいんだけど、長持っていうのか行李っていうのか知らないけど、いくつもあって、そこに本だのノートだのがたくさん入っててね。あの原稿もその中にあってさ」

「……実家に蔵があるってだけでもすごいけど、長持だの行李だのって……そういうの時代劇だけかと思ってた」

「だからさ、その中を探せば、泰明さんが読んだ原著が出てくるんじゃないかな?」

「……『ウィアード・テイルズ』が、あるかも知れないって? 君んちの蔵に……?」



     *     *     *



「明日も実家、行くの?」

 台所へ皿を下げにきた僕に、妻が聞いた。

「行くよ。日曜だし」

「私も行こうかな」

「えっ」

「明日あさっては連休でしょ。でもどうせ予定もないし。そんなにたくさんの荷物を調べるとなると、泊まりがけかなぁ」食器洗い機に皿と箸をセットしながら、そう言う。

「うちの両親、明日から旅行だからいないよ?」

「知ってる。北海道だったよね。泊まりがけで留守番しながら、二人で蔵の片付けしてますからって、言うのは……駄目かな?」

「……いや、大丈夫じゃないかな? 僕としても、庭木の水やりも頼まれてるから人手がある方が助かるし。あとでメールして聞いてみるよ」

「うん。じゃあ、そういうことで」


 台所に妻を残して、僕は風呂場へ行った。

 湯船の栓をして、湯を張る。

 ざばざばと音を立てて湯が流れ込む。

 だんだん上昇する水面を見つめながら、妻の言葉を反芻する。


──私も行こうかな。

──連休で、どうせ予定もないし。

──そんなにたくさんの荷物を調べるとなると、泊まりがけかなぁ……。


 いつにない彼女の即断即決ぶりが、胸にひっかかった。

 食器洗い機の作動する音が風呂場にまで聞こえてくる。


──『ウィアード・テイルズ』が、あるかも知れないって? 君んちの蔵に……? 


 そんなのは僕の、ほんの思いつきに過ぎないというのに……。 



 あなたは、そう信じたいだけなんじゃないのか?

 でも、もし見つからなかったら?

 妻は本当は、どちらを望んでいるのか?

 そして、僕は?


(続く)

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